大河ドラマ西郷どん(せごどん)
平野国臣(國臣)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、西郷吉之助は島津久光の命で下関に行き待機し、その後京に上がることになりましたが、この間に多くの過激派尊王攘夷志士と出会いました。
ドラマの中では登場するかどうか分かりませんが、その中で面白い人物が一人いたので紹介したいと思います。
その男の名は「平野国臣(國臣)」。
ドラマでは描かれませんでしたが、史実ではこの平野国臣は、吉之助が月照と海に飛び込んだ際に吉之助を助け出した人物でした。
この記事では、幕末の尊王攘夷志士たちのファッションリーダーにもなった平野国臣の生涯について簡単に紹介します。
出典:http://museum.city.fukuoka.jp/
平野国臣(國臣)
平野国臣は幕末のファッションリーダー
平野国臣は、文政11年(1828年)に福岡藩の足軽・平野吉郎右衛門の二男として生まれました。
当初の名前は「次郎」で、足軽鉄砲頭・小金丸彦六の養子になると、弘化2年(1845)には江戸勤番を命じられて江戸に上ります。
帰国後、小金丸の娘と結婚した次郎は漢学、国学を学び、日本本来の古制を尊ぶ思想である「尚古主義」にハマりました。
嘉永6年(1853)、再び江戸に上がった次郎は学問に励み、水戸藩の会沢正志斎の影響を受けて「尚古主義」にドハマりしていきます。
そして翌年帰国する際には、次郎は古制の袴を着て、古風な太刀を差すという時代錯誤ないでたちで旅路につきます。
当時の人々は次郎をクスクス笑っていましたが、当の本人はドヤ顔だったといわれています。
しかし、次郎の「尚古主義」はこれだけで終わりませんでした。
長崎勤務となった次郎は、有職故実家・坂田諸遠の門人となって「尚古主義」が完全に暴走。
福岡に戻ると仲間を集めて、烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになります。
この次郎の行動には小金丸家も困惑し、結局、次郎は離縁させられて平野家へ帰されてしまいました。
藩務を辞職した次郎は、さらに梅田雲浜と出会って知識を深めていきます。
藩主に犬追物(鎌倉時代に始まった弓術の作法)の復活を直訴する無礼を働き、幽閉されてしまった次郎は「国臣」と名を改めました。
そして月代(頭頂部)を剃るのは古制ではないと考えて、髪を伸ばして総髪にします。
後に、総髪が浪士を中心に流行りますが、この時期に総髪にしているというのは武士の中で異常な行動でした。
こうして国臣の深い知識を伴った過激な行動や言動は、やがて人望を集めるようになっていきました。
幕末に戦国武将がタイムスリップしたようなもの
平野国臣は月照と入水した西郷を助ける
安政5年(1858)、島津斉彬の率兵上洛の情報が親交を持っていた薩摩藩士・北条右門から入り、国臣は上京します。
しかし、直後に島津斉彬は急死してしまったため、率兵上洛は中止となりました。
困った国臣は、京で斉彬の側近・西郷隆盛と知り合い、公家への運動に力を貸すことにします。
しばらくして国臣は福岡へ戻りますが、その間に西郷隆盛と結びついていた勤王の僧・月照が幕府から追われることになりました。
国臣は月照を薩摩へ逃そうとしますが、福岡藩は幕府寄りの立場を取ったために協力は得られません。
それでも筑前で西郷隆盛、月照と合流した国臣は、共に薩摩へ向かうことにしました。
国臣と月照は山伏に変装し、関所を潜り抜けて鹿児島に入りましたが、頼りにしていた薩摩藩は月照を幕府に引き渡そうしました。
行く先の無くなった国臣たち。西郷隆盛は月照とともに錦江湾に飛びこんでしまいました。
月照は水死してしまいましたが、西郷隆盛は国臣らに助け上げられ一命を取り留めます。
しかし、薩摩藩から見ればただの厄介者の国臣は、このあとすぐに追放されて筑前へ帰ることになってしまいました。
平野国臣なんて放っておいて一緒に泳ぎましょう!
平野国臣の逃亡生活
福岡に戻った国臣は、再び京へ上りますが、京では安政の大獄で尊王攘夷志士たちの捕縛が相次いでいたため、すぐに退去して身を隠します。
そして尊王攘夷志士たちの支援を行っていた下関の豪商・白石正一郎邸に身を寄せると、水戸藩士や薩摩藩士と共に井伊直弼暗殺を画策。
暗殺計画実行の直前、福岡へ戻った国臣は藩主に対して暗殺が成功すれば薩摩藩と連携し、攘夷実行のため軍備を整るよう建白書を提出しました。
こののち桜田門外の変が起こり、暗殺成功の報を下関で聞いた国臣は同志と祝杯をあげました。
しかし、福岡藩はこの事件の計画を事前に知っていた国臣の捕縛を命じます。
自分に追っ手がかかると、国臣は薩摩への逃亡を計画。
しかし薩摩藩には入国を拒否されしまったため、肥後国の松村家に匿われました。
国臣はこの逃亡生活で久留米の勤王志士・真木和泉と意気投合。
その後、村田新八・有馬新七らの手引きで薩摩へ入りましたが、「国父」島津久光に嫌われ、大久保利通からも見放されて国臣は退去させられました。
失望した国臣は「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と歌を残しています。
肥後の松村家に戻った国臣は河上彦斎と交流を深め、天草へ移って『尊攘英断録』を書き上げました。
この『尊攘英断録』は、公武合体の批判と雄藩が天皇を奉じて倒幕の兵を挙げることが書かれている過激な内容で、尊王攘夷志士に大きな影響を与えました。
清河八郎が島津久光にも渡すよう勧めたため、国臣は鹿児島に潜入して大久保利通に『尊攘英断録』を差し出します。
しかし、ありがた迷惑だったのか国臣は、大久保利通に旅費10両を渡されて帰還させられました。
尊攘英断録?いらん!
平野国臣と寺田屋騒動
国臣が肥後へ戻ると「島津久光が倒幕の兵を挙げる」との噂が広まり、尊王攘夷浪士たちは京、大坂に集まり出します。
そして国臣や有馬新七らは、これを機に「倒幕」の挙兵を計画しました。
しかし、文久2年(1862)、上京した島津久光の目的は「倒幕」ではなく「公武合体」の幕政改革のためでした。
島津久光は有馬新七らの過激な計画を知って驚き、尊王攘夷浪士粛清を決意。
国臣は薩摩藩の捕吏に捕まって福岡藩へ引き渡され、寺田屋では薩摩藩士同志が斬り合いになり、有馬新七が死亡しました。
尊王攘夷志士の間で有名だった国臣は、福岡で丁重に扱われていましたが、寺田屋騒動以後は扱いが急変し、牢屋にブチ込まれました。
平野国臣と天誅組
文久3年(1863)、情勢が尊王攘夷派に傾き出すと国臣は釈放されました。
この頃、長州藩が攘夷派の公家と結んで朝廷を操っており、京都では尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていました。
そんな中、国臣の盟友であった真木和泉の画策で「大和行幸」の勅命が下りました。
「大和行幸」は孝明天皇が神武天皇陵に参拝して攘夷親征を決行する計画。
これを好機と捉えた中山忠光、吉村虎太郎らの天誅組は、「大和行幸」に先立って大和国五条の代官所を襲撃して「倒幕」の兵を挙げました。
一方、国臣は攘夷派の公家の中心・三条実美に抜擢され、学習院に出仕していました。
天誅組の暴走を懸念した三条実美は、国臣に天誅組の制止を命じます。
しかし、国臣が大和国に着いた頃、京都では長州藩を追い落とすため、会津藩と薩摩藩が結んで政変を起こし、三条実美は追放されていました。
政変を聞いた国臣は、すぐに京都に戻りましたが尊皇攘夷派は大打撃を受けており居場所はありませんでした。
それでも国臣は大和で孤立無援となった天誅組と呼応しようと計画。
しかし、故郷の福岡藩の尊王攘夷志士らに協力を断られて、国臣は他国を彷徨うことになってしまいました。。
平野国臣が起こす生野の変
その後、国臣は但馬国の志士・北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画しました。
長州藩に庇護されていた攘夷派の公家・澤宣嘉を迎えて生野に入ると、国臣は大和で戦っていた天誅組壊滅の報を聞きました。
これを聞いて国臣は挙兵の中止を主張しましたが、一度走り出した強硬派は止まりませんでした。
国臣も参加して生野の代官所を押さえ、農民たちに呼びかけて2,000人の兵を集めます。
これに対して幕府の対応はすばやく、翌日には周辺諸藩から鎮圧のための兵が動きます。
すると浪士たちは狼狽し、早くも解散案が浮上。
主将であった澤宣嘉まで逃げ出してしまいます。
国臣は農民たちに「騙された」と怒りの目を向けられ、さらに「偽浪士」のレッテルまで貼られて襲われます。
たまらず国臣は兵を解散して脱出を図しましたが、豊岡藩兵に捕まって京の六角獄舎につながれました。
元治元年(1864年)、長州藩が京に迫って禁門の変が起こると京の町は炎上。
国臣がいた六角獄舎に火が及び、役人たちは囚人の脱走を心配します。
そして国臣は、処刑実行を決めた役人たちによって他の囚人とともに斬首されました。享年37。