大河ドラマ西郷どん(せごどん)
横井安武
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第39話で、横井安武という一人の若い侍が登場します。
この横井安武は政府の政策に不満を持ち、鹿児島で農民のような生活を送る西郷隆盛に共に東京に行って新政府に抗議して欲しいと願い出ました。
しかし、これが断られると「政府の犬」と痛烈な言葉を西郷隆盛に浴びせ、一人で東京に行って政府に抗議の切腹を行います。
この記事では、壮絶な死によって西郷隆盛に後悔の念を抱かせる「横山安武」の短い生涯について簡単に紹介します。
出典:https://rock33014.at.webry.info/
横山安武
小姓から守役へ
横山安武は、天保14年(1843)に薩摩藩士・森有恕の四男として誕生した。弟には初代文部大臣となった森有礼がいる。
安政4年(1857)、藩に仕えていた儒学者・横山安容の養子となり、横山家を継承した横山安武は薩摩の「国父」島津久光に小姓として取り立てられた。
明治元年(1868)、久光の五男・悦之助(島津忠経)の守役となった横山安武は、悦之助に藩外での遊学を勧めた。
そして翌年から諸藩遊学の旅に出発し、佐賀藩の弘道館、山口藩の明倫館などに同行して共に学んだ。
明治3年(1870)、山口にいた横山安武と悦之助は、山口藩の兵制改革に反対する奇兵隊らの脱隊騒動に遭遇。
脱退兵士約1,000人が起こした反乱、暴動を薩摩藩に報告するため、横山安武は独断で悦之助を残して鹿児島に帰国した。
しかし、これが久光の不興を買ってしまい、横山安武は守役から退くこととなった。
抗議の切腹
その後、東京府へ上って陽明学を学んだ横山安武は、政府の腐敗する状況を憂いていた。
そして当時、盛んに論じられていた「征韓論」に対する抗議と、政府高官の慢心により政策が国ではなく個人の為に行われ、結果的に民を苦していると抗議を行うため、建言書を集議院門の扉に差し込み、津藩邸裏門前で切腹した。
建言書には、岩倉具視らが個人感情によって潔白の者を度々冤罪に陥らせたとも記していた。
横山安武の抗議の切腹は、今後はこれらの全てを公平にせよとのメッセージであった。
腹を切った横山安武は、発見時はまだ会話ができる状態であり、すぐさま鹿児島藩邸に引き取られて介抱された。
しかし、回復することは無く翌日には死亡。享年28。
この壮絶な死は世間で話題となり、それを見て政府は島津家に祭祀料100円を下し、西郷隆盛も碑文を作って横山安武を弔った。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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