大河ドラマ西郷どん(せごどん)
島津雨と島津忠久
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第31話、糸(黒木華)と西郷家の家族たちは、吉之助の帰りを心配そうに待っています。
この頃、幕府の長州再征が決定し、さらに降りしきる雨が糸たちの不安を煽っていました。
現代でも天候が悪いとあまり良い気はしないものですが、心配する糸たちの気持ちとは逆に、大河ドラマの舞台・薩摩では昔から「島津雨」という言葉があります。
他地域の人間にはあまり聞き慣れない言葉ですが、今回は薩摩の統治者である島津氏にちなんだ「島津雨」と、島津氏の始祖「島津忠久」について簡単に紹介していきたいと思います。
出典:https://ameblo.jp/bluedeloi/
島津雨とは?
島津雨とは鹿児島での雨の呼び名。
島津家の始祖である島津忠久が、雨の日に生まれたという伝承にちなんで、雨をめでたいことが起こる吉兆として風情ある呼び名を使っているもの。
ちなみに島津忠久の父親は諸説あってハッキリしておらず、母の丹後内侍(たんごのないし)が源頼朝と近しい存在であったことから、のちに島津氏は島津忠久を源頼朝の子であると主張している。
島津家始祖・島津忠久とは?
近衛家に関係する武士
島津忠久は、島津氏の祖として知られるが、正式な名は惟宗忠久(これむねただひさ)という。
惟宗氏は鎌倉時代以前より京都の公家を警護する武士で、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた。
また、惟宗氏が仕えていた近衛家は南九州の島津荘の荘園領主であり、これらの関係からのちに惟宗忠久は大隅・日向・薩摩の守護に任命されたと考えられている。
さらに、幕末の島津家と近衛家の親密な関係もこれに由来するものである。
惟宗忠久は近衛家に仕える一方で、東国武士の比企氏や畠山氏と関係があり、源頼朝が台頭してくると信任を得て御家人となることとなった。
薩摩守護職・島津氏
惟宗忠久は比企能員の手勢として平家追討や奥州合戦に参陣し、建久8年(1197)に大隅国、薩摩国、日向国の守護職を任される。
この他、諸国で守護や地頭職にも任命されているが、惟宗忠久は最も広大な島津荘を本貫(本籍地)にしようと考え、その地名から姓を「島津」と称するようになった。
しかし、この後も島津家当主は鎌倉で活動していたため、現地には一族・家人を派遣して運営させている。
実際に島津氏が南九州に土着していくのは、四代目の島津忠宗からである。
頼朝死後、建仁3年(1203)に比企能員の変が起こると、島津忠久は比企能員の縁者として連座し、大隅、薩摩、日向の守護職を没収された。
しかし、その後3代将軍・源実朝の時に学問所番となって御家人復帰を果たして薩摩守護職を再任され、以降は島津氏が守護職を相伝していった。
嘉禄3年(1227)、島津忠久は脚気と赤痢により死去。残る大隅・日向守護職が戻るのは南北朝時代以降のこととされている。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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