大河ドラマ西郷どん
なぜ、斉彬はすぐに改革しなかったのか?
論語『襲封(しゅうほう)して3年~』の意味
大河ドラマ西郷どんの第5話「相撲じゃ!相撲じゃ!」の冒頭、新藩主に就任した島津斉彬に対し、有村俊斎ら郷中の仲間たちが失望し怒りをぶちまけました。
有村たちが失望したのは、斉彬が新藩主になっても、前藩主・斉興の周りの者たちが処罰されず、逆に斉彬を担ごうとして処罰された者たちの赦免をしなかったから。
しかし、当の斉彬は、斉興に仕えた重臣たちを前にこう言っています。
「父上に重く用いられた者ども、実によう勤めてくれた。『襲封(しゅうほう)して3年は先君の政を曲げること叶わじ』と論語にある如く、余もそれに倣う。父上の時に劣らず、さらに励んでくれ。」
今回は、この斉彬の言葉に出てくる「論語」とさらにその中にある「襲封(しゅうほう)して3年~」の一節について紹介します。
論語
論語とは、孔子と彼の高弟の言葉を弟子達が記録した書物で、儒教における「四書」の一つです。(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)
古代中国において、書物の名は『孫子』や『孟子』のように人の名が書名になることが多いが、『論語』が『孔子』とされなかったのは、孔子の言葉や問答を集め、門人たちが論じながら編纂したからだといわれています。
『論語』は魯地方で伝承していた『魯論語』、斉地方で伝承していた『斉論語』、孔子の旧家の壁の中から発見された『古論語』の3派があって、編の数や順序も異なっていましたが、後漢末期に『魯論語』を基軸にして現在の形になりました。
『論語』は古来より必読の書とされていて、宋の時代には『論語』を含む「四書」が重要視され、科挙の科目にもなっています。
また、ヨーロッパでも中国で布教していたイエズス会の宣教師が翻訳して出版。
モンテスキューや、ケネーといった思想家らに大きな影響を与えて、啓蒙思想の発展に寄与することになりました。
孔子
斉彬の言った『襲封(しゅうほう)して3年は先君の政を曲げること叶わじ』とは
斉彬の言っている論語の一節は、漢文では「子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道、可謂孝矣」と書き、現代語訳すると「孔子は言いました。子は父親が生きている間は、その志を評価すべきで、父親の死後はその行為を評価すべきである。父親の死後3年間、父親のやり方を変えなければ、孝行な人間であると言える」という意味になります。
そのままの意味をとってしまうと、
「えっ?どんな悪い父親でも、マネしなきゃいけないの?」
と疑問に思いますが、儒教においては、そんなことは関係ありません。
自分を抑えて人を思いやる思想『仁』が儒教において大切なんです。
気にしない気にしないw。
悪い父・斉興
じゃあ、
「大河ドラマで島津斉彬は『親孝行』のために父・島津斉興の政治を評価して同じ家臣たちを重く用いたってこと?」
いえいえ、違います。
そもそも、斉興は死んでねーしw。
実は、上記の論語の一節は、単なる『孝行』という事だけの説明ではありません。
この一節は、世代交代の際の配慮についても考えていると解釈されています。
まわりくどいけど・・w
その解釈とは、
親から子へ世襲された組織にあって、主君の代替わりには大胆な改革がつきものである。
しかし、短い期間で家臣たちを入れ替えて変革をやってしまうと、ついてこれない者が出て国が乱れてしまう。
だから3年ぐらいの時間をかけてゆっくりと変革をするべきだ。
となります。
島津斉彬は、この解釈によって急激な改革を抑え、薩摩の乱れを防ごうとしたのです。
早期に改革を望む下級武士には決して理解はされず、自分に非難の目が向けられようとも、国を守ろうとする名君。
これこそ皆が命を懸けて藩主にしたかった男・島津斉彬なんです!
名君・斉彬