大河ドラマ西郷どん(せごどん)
本編裏話②
西郷の徳之島、沖永良部島生活中に動いた日本の歴史を紹介!
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第24話で徳之島に流されてしまった西郷吉之助は、その後さらに遠方の沖永良部島にも流されて約1年半の時を過ごします。
罪人として扱われた吉之助は衰弱し生死の境を彷徨いますが、そんな中でも日本の歴史はめまぐるしく動いていました。
今回は、西郷吉之助が徳之島、沖永良部島で過ごした約1年半の間に起きた日本の歴史の出来事について簡単に紹介します。
文久2年(1862)
7月5日(西郷)
薩摩藩の「国父」島津久光の怒りを買ってしまった西郷吉之助が徳之島に到着。
奄美大島の時とは違い、西郷はれっきとした「罪人」として流刑に処されたため、藩からの手当てもなく、代官の管理下のもと食料や生活備品など全て自分で調達しなければなりませんでした。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)では、この時に徳之島の役人・琉仲為から大久保一蔵の手紙を手渡され、吉之助は手紙の中にある「必ず島から呼び戻す」という言葉に希望を持ち、徳之島での生活をはじめています。
徳之島つまんねぇ・・・
8月?日(西郷)
奄美大島で別れた愛加那が、長男の菊次郎と生まれたばかりの菊草と連れて徳之島にやってきました。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)でも、突然やってきた愛加那たちに吉之助は驚きますが、久しぶりの愛加那と菊次郎との再会、はじめて見る一人娘・菊草に顔をほころばせ、穏やかな時間を過ごしています。
8月21日
幕府へ改革要求へするため江戸にいた島津久光が、帰り道の武蔵国生麦村で英国人4名に行列に割り込まれ、薩摩藩士・奈良原喜左衛門、海江田武次らが激昂して1名を殺害する「生麦事件」が発生しました。
殺っちゃいました
8月26日(西郷)
薩摩藩より西郷吉之助に沖永良部島への遠島命令が下されました。
これにより、吉之助と愛加那は二度目の別れを経験。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)では、吉之助は「必ず戻ってくる」と愛加那に約束しています。
閏8月1日
幕府の改革により、京都に新設された京都守護職に会津藩主・松平容保が就任しました。
このころ会津藩の財政は破綻寸前で、松平容保以下、家臣たちは就任には反対していましたが、幕府の政事総裁職・松平慶永(春嶽)から「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」という会津藩の家訓を持ち出され、しぶしぶ承諾させられました。
この就任に対して会津藩士たちは「これで会津藩は滅びる」と嘆いたといいます。
閏8月14日(西郷)
沖永良部島に西郷吉之助が到着。
吉之助は吹きさらしの牢に入れられ、劣悪な環境の中で生死の境を彷徨いますが、西郷を崇拝する沖永良部島の役人・土持政照らによって助けられて座敷牢に移されて回復。
その後、同じ流人の川口雪篷と意気投合し、子供たちに学問を教え、島民たちから慕われていきました。
沖永良部島つまんねぇ・・・
12月12日
江戸品川御殿山で建設中のイギリス公使館を、長州藩士たちが焼き討ちする事件が発生。
攘夷を幕府に促す勅使一行が江戸に滞在中、高杉晋作らは横浜襲撃を計画していましたが長州藩主・毛利定広の説得で中止となり、その後「御楯組」を組織して勅使らが江戸を発ってから焼き討ちを実行しました。
隊長は高杉晋作、副将に久坂玄瑞、そのほか井上馨、伊藤博文、品川弥二郎、赤根武人、山尾庸三ら幕末の長州を代表するメンバーが参加していました。
大河ドラマ「龍馬伝」の高杉晋作
文久3年(1863)
3月4日
14代将軍・徳川家茂が将軍としては229年ぶりに京へ上洛を果たしました。
京で長州藩を中心とした尊王攘夷派が勢力を拡大し、岩倉具視ら公武合体派を追放して朝廷を操り、幕府に「攘夷」の実行をさせるため将軍の上洛を促したものでした。
4月20日
上洛した将軍・徳川家茂に朝廷が「攘夷」の実行をの要求し、幕府として「5月10日」が攘夷実行の日であると布告しました。
家茂は攘夷の不可能、公武合体勢力の立て直しを図っていましたが、三条実実、姉小路公知ら尊王攘夷派公家の横行をとめられず、強引に約束させれたものでした。
5月10日
攘夷実行の日、長州藩は単独で下関の関門海峡を航行する外国船に対し無差別攻撃を開始しました。
しかし、その後報復にきたアメリカの軍艦・ワイオミング号の前に2隻の軍艦が撃沈され、さらにフランス軍艦からも砲撃を受けて砲台を徹底的に破壊されてしまいます。
6月6日
長州藩士・高杉晋作が奇兵隊を結成しました。
奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町人が混合された軍隊で、隊士には藩から給与が支給され、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励んみました。
隊士らは西洋式の兵法をよく吸収し、当時最新の兵器・スナイドル銃を取り扱って多くの戦果を上げることになります。
大河ドラマ「花燃ゆ」の高杉晋作
7月2日
前年の生麦事件の犯人の引き渡しと賠償金を要求のため、鹿児島湾にきていたイギリス艦隊が薩摩の汽船3隻を掠奪したことにより薩英戦争が始まりました。
わずか3日間の戦いで鹿児島城下の10%が焼失しましたが、薩摩軍はよく戦い、イギリス艦隊は撤退。
その後、和議が成立して薩摩藩とイギリスはお互いの実力を認め、友好関係を結んでいくことになります。
西郷吉之助は、沖永良部島で薩英戦争の報を聞き、脱走を計画。
土持政照も協力して船「宝徳丸」を作りますが、しばらくしてイギリス艦隊の退去を聞き、脱走を思い留まりました。
え? もう終わったの?
8月17日
土佐脱藩浪士・吉村虎太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿・中山忠光を主将として大和国で決起しました。
真木保臣が献策し、8月13日に攘夷派の公家・三条実美らによって大和行幸の詔が発せられ、天誅組はこの大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げてたものでした。
大和行幸の内容は孝明天皇が大和国橿原にある神武天皇陵に参拝し、攘夷親征を行うというものでしたが、三条実美は天誅組の行き過ぎた行動を危惧していました。
三条実美は天誅組に自重を促そうとしましたが、翌日に八月十八日の政変が起こって三条実美ら尊王攘夷派の公家たちは失脚し、大和行幸の詔は偽勅とされ天誅組は完全に孤立。
9月になって天誅組は壊滅します。
8月18日
公武合体派が尊王攘夷派公卿を排除したクーデター「八月十八日の政変」が起こりました。
孝明天皇は、大和行幸を計画した三条実ら美尊皇攘夷急進派の行き過ぎた行動を快く思っていませんでした。
そこで会津藩、薩摩藩など公武合体派グループは、中川宮朝彦親王の協力を得て天皇を説得し、御所の門を封鎖。
朝廷は三条実美らに外出禁止と面会禁止を命じ、大和行幸の延期や、尊王攘夷派公家や長州藩主の処罰を決定しました。
この政変により長州藩は京都から追い出され、翌日には三条実美ら尊王攘夷派公家7人も長州へと下っていきました。(七卿落ち)
10月2日
福岡藩士・平野国臣をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団が丹波国生野で挙兵しました。
八月十八日の政変後、平野国臣が大和で孤立無援となった天誅組と呼応しようと、但馬国の志士・北垣晋太郎と連携して挙兵を計画したもので、長州藩に庇護されていた攘夷派の公家・澤宣嘉を迎えて生野で兵を挙げました。
天誅組壊滅の報を聞いて平野国臣は挙兵の中止を訴えていましたが、強硬派は止まりませんでした。
翌日には周辺諸藩から鎮圧のための兵が動きだし、澤宣嘉が逃亡。
募兵された農民たちは「騙された」と怒り、平野国臣たちは「偽浪士」と罵られて襲撃され壊滅しました。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)では描かれませんでしたが、首謀者の平野国臣は西郷隆盛とかなり深い関係にあった人物でした。
元治元年(1864)
2月21日(西郷)
西郷吉之助の赦免が決まり、沖永良部島に吉井友実と西郷信吾が迎えに来ました。
鹿児島行きの船に乗った吉之助は途中、奄美大島に立ち寄って愛加那たちと短い間でしたが家族水入らずの時を過ごしました。
そしてこれが、吉之助と愛加那の今生の別れとなってしまいました。
2月28日(西郷)
西郷吉之助が鹿児島に到着。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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