大河ドラマ西郷どん(せごどん)
お由羅と「お由羅騒動」
大河ドラマ西郷どんで、島津斉興の側室として登場する「お由羅」は個性的なキャラで、小柳ルミ子はまさにはまり役。
斉興と久光を溺愛し、斉彬を嫌う「お由羅」は、のちに「お由羅騒動」と呼ばれた薩摩藩を混乱に陥れるお家騒動を引き起こします。
今回は、斉彬の子を呪ったと噂された「お由羅」と、その名前までつけられしまった「お由羅騒動」について簡単に紹介します。
お由羅(ゆら)
お由羅は、寛政7年(1795年)に誕生。
出自は江戸の大工、八百屋、舟宿の娘など多数の説がある。
薩摩藩邸で奉公していた時、藩主・斉興に気に入られ側室となった。
藩邸には正室がいたために、基本的にお由羅は薩摩にいたが、斉興は参勤交代の度に江戸にお由羅を連れて行くほど寵愛していた。
お由羅は、斉興にとって5男となる久光を生み、文政7年(1824年)に正室が死去すると「御国御前」と呼ばれて正室同様の待遇を受けた。
斉興と正室の間に生まれていた長男・斉彬を廃嫡して、息子の久光を後継者にしようと画策し、お家騒動を巻き起こしたといわれる。
お由羅騒動とも呼ばれたお家騒動は、幕府の介入によって鎮静化されるが、お由羅は罰を受けることはなかった。
その後、斉彬が急死すると孫の茂久(忠義)が藩主に就任。
慶応2年(1866年)に鹿児島城下で死去した。
ちなみに孫である茂久(忠義)の七女・俔子は久邇宮邦彦王に嫁し、その長女である良子女王は昭和天皇妃となった。
お由羅騒動(高崎崩れ)
お由羅と久光を溺愛する斉興と、島津重豪の影響を受けて異国文化に興味を持った斉彬が藩主となった場合に薩摩藩の財政を再び悪化させるのではないかと懸念した家老・調所広郷ら重臣は、斉彬を廃嫡して久光を後継者にすることを考えていた。
一方で外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事も多かった薩摩藩には、西洋の事情に明るい斉彬を藩主にしたい派閥も存在した。
斉彬を指示した派閥には、倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する幕府の老中・阿部正弘がいる。
そんな中、斉興は嫡子である斉彬が40歳を超えても家督を譲らず、藩主の座に居座り続けた。
下級藩士出身の調書広郷は、斉興に重用されて藩の財政を改善していたが、不満を持つ斉彬と若手藩士は「斉興の隠居と調所の失脚」で結束、嘉永元年(1848年)に薩摩藩の密貿易を老中・阿部正弘に密告した。
阿部正弘から事情聴取を受けた調書広郷は、斉興をかばって罪を一人でかぶり服毒自殺。
調書の自殺で咎めを受けなかった斉興は隠居せず、計画は失敗に終わった。
これによって斉興は、斉彬を激しく憎むようになった。
一方で斉彬はたくさんの子をもうけたが、男子はことごとく幼少の内に死亡していた。
これを斉彬派の若手藩士は「お由羅の呪い」と決めつけ、お由羅と久光擁立派を暗殺しようと計画する。
すると久光派は、暗殺を謀議したとの咎で斉彬派の重臣たちを捕縛し切腹させた。
さらに斉彬派の約50名に蟄居・遠島などの処分を下すなど徹底した弾圧が行われた。
斉興の処分を逃れて脱藩した斉彬派の藩士は、福岡藩に逃げ込み、島津家と遠戚でもあった福岡藩主・黒田長溥は、幕府老中・阿部正弘に事態収束を訴えた。
阿部正弘は、将軍・徳川家慶に「斉興隠居」を命ずるよう要請。
家慶は斉興に茶器を下して隠居を促した。
さすがに斉興も将軍命令を拒絶をすることができず、ついに家督を斉彬に譲り「お由羅騒動」は終焉を迎えることとなった。