大河ドラマ西郷どん(せごどん)
徳川慶喜のその後
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で主人公・西郷吉之助の最大の敵として幕府の頂点に君臨した徳川慶喜は、吉之助が起こす革命によって次第に追い詰められ、ついには江戸城を明け渡して歴史の表舞台から消えていきました。
では、その後の慶喜はどうなったのか?という疑問に答えるため、この記事では徳川慶喜が幕府崩壊後に送る人生を簡単にまとめました。
遊び人「ヒー様」から将軍へ、そして将軍から再び遊び人「ケイキ様」へと変わった「徳川慶喜のその後」をご覧ください。
徳川慶喜のその後
慶応4年(1868)4月に江戸城が明け渡された後、徳川慶喜は上野に立て籠る彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れ、水戸の弘道館の至善堂にて謹慎していた。
7月に徳川家が駿府に移封されて慶喜も駿河の宝台院に移ったが、明治2年(1869)に戊辰戦争が終結すると謹慎は解除。
そのまま慶喜は静岡(駿府より改称)に居住した。
静岡での慶喜は政治的を野心を全く持たず、趣味に没頭する生活を送り、地元の人々から「ケイキ様」と呼ばれて親しまれた。
慶喜の趣味としては以下のとおり。
自転車:愛用の自転車でサイクリングしていた。このとき、家臣達は走らされていた。
写真:趣味として写真雑誌にも投稿したが、なかなか採用されず上達もしなかった。
油絵:最初は狩野派に絵を学び、静岡では西洋画法を身につけた中島仰山を召して油絵を学んだ。
慶喜の風景画の多くに橋が描かれており「近世から近代への橋渡し」という意味があるといわれる。
他にも莫大な隠居手当てをもとに狩猟、投網、囲碁、謡曲などを嗜んだが、一方で慶喜は旧幕臣たちの訪問があってもほとんど会おうとせず、共に静岡に移り困窮していく旧家臣の生活に無関心であったため、恨み嘆きの声も多く上がったという。
明治30年(1897)、慶喜は30年近く住んだ静岡を離れ、東京の巣鴨に移り住み、翌年には有栖川宮威仁親王の仲介によって明治天皇に拝謁。
皇居参内の翌日、慶喜は名誉回復に尽力してくれた勝海舟に礼を言い、勝海舟も涙を流して喜んだ。
また、「むやみに旧大名と行き来しないように」という勝海舟の忠告には、慶喜は「その通りにします」と返答したという。
そして慶喜は明治35年(1902)に公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興すことを許された。
また、貴族院議員にもなって35年振りに政治に携わることになった。
明治43年(1910)、議員を辞職した慶喜は、家督を七男・慶久に譲って隠居。
その後は、再び趣味の世界に浸り、大正2年(1913)に急性肺炎で死去した。享年77。
慶喜は朝敵であった自分を赦免し、公爵まで授けてくれた明治天皇に感謝の意を示すため、葬儀を神式で行なうよう遺言していた。
このため、慶喜の墓は徳川家代々の菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族と同じような円墳が建てられ葬られた。
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