【勝海舟のその後】西郷どん(せごどん)明治維新後の勝海舟はどうなった?慶喜、西郷隆盛の名誉回復に奔走した英雄のその後を追う

      2018/10/02

大河ドラマ西郷どん(せごどん)
勝海舟のその後

大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、江戸城無血開城で西郷吉之助と会談し、江戸の町を戦火から救った勝海舟。

勝海舟はその後、明治新政府にも迎えられることになりますが、その性格からか、与えられた職を次々に辞任し、野に下ってしまいます。

政府に不満がなかったわけではありませんが、勝海舟は幕府を終わらせた責任の取り方と、己の決めた生き方を純粋に追い求めたかったのかもしれません。

この記事では、そんな勝海舟の江戸城無血開城後の人生を「勝海舟のその後」として簡単にまとめました。

一見すると面倒くさい、ややこしい人ですが、根底にある勝海舟の「江戸っ子」としての魅力的な人柄について少しでも分かっていただけると幸いです。

 

 

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勝海舟のその後

戊辰戦争が終結し、勝海舟は徳川家が静岡に移されるのと同じ頃に幹事役として政府との交渉役を任されていた。

その後、勝海舟は旧幕臣の代表格として明治2年(1869)に政府から外務大丞に任命されたものの、一ヶ月も経たずに辞任し、兵部大丞に就いてもすぐ辞任するなど長続きしなかった。

唯一、勝海舟が新政府で仕事をしたのは明治5年(1872)に任じられた海軍大輔の時で、この職にあった明治6年(1873)に勅使として鹿児島へ下向し、島津久光の上京を促したことだった。

しかし、勝海舟はこの年の征韓論争で西郷隆盛らが下野した後に、台湾出兵に反対して引き籠り、明治8年(1875)には辞職して下野してしまう。

 

 

は?外務大丞?やりたくねぇな

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その後、勝海舟は在野のご意見番として様々な意見を自由に発信していたが、明治21年(1888年)に始まった大日本帝国憲法制定時に顧問官として再び政府に招かれた。

しかし、勝海舟は終始無言を貫き、決して意見することはなかった。

これは伊藤博文らが作ろうとした憲法が、自分の考えと一致していたためで何も文句もなかったからだった。

それを示すように、勝海舟は憲法公布後に伊藤博文を称える意見を出している。

 

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勝海舟は政府に対しては不満はあったが、提出した意見書は説教程度で決して体制批判したものではなかった。

しかし、その政治的姿勢をマスメディアから厳しく批判されたこともあった。

幕末に勝海舟は徳川慶喜から疎まれていたが、維新直後から勝海舟は慶喜の名誉回復に30年間も尽力していた。

明治25年(1892年)に長男・小鹿を失った勝海舟は、友人を通して慶喜の末子・精を婿養子に迎えて和解。

そして勝海舟の努力は明治31年(1898)に報われて、慶喜は明治天皇に拝謁を許されて公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許された。

拝謁の翌日、慶喜は勝海舟に礼を述べ、勝海舟は泣いて喜んだという。

 

 

俺も嬉しいっす!

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慶喜の名誉回復だけでなく、勝海舟は旧幕臣の就労先の世話や資金援助なども、維新直後から続けていた。

永井尚志ら旧幕臣とその家族への資金援助をしたり、静岡では旧幕臣たちに茶畑開墾を奨励させたり、明治13年(1880)には徳川一族から積立金を集め、日光東照宮の保存を図るなど、新政府での職務とは打って変わって精力的に活動した。

また、征韓論争で鹿児島に戻った西郷隆盛のことも気にかけ、西南戦争勃発時は起こると西郷軍への同情論も語っている。

しかし、政府から西郷隆盛との調停役を依頼された時はこれを断った。

この西南戦争後、勝海舟は逆賊とされた西郷隆盛の名誉回復にも奔走し、明治天皇の裁可を経て上野の銅像建立を支援している。

 

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日清戦争では弟子ともいえる伊東祐亨が連合艦隊司令長官に就任したが、勝海舟は戦争には反対だった。

清国の北洋艦隊司令長官が敗戦後に責任をとって自害した際、勝海舟は堂々と敵将の追悼文を新聞に寄稿している。

勝海舟は日本が欧米の植民地政策を真似る愚かさや、中国大陸と国の大きさを説き、争うのではなく共闘して欧米に対抗すべきだと主張していた。

 

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晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川で過ごし、子供たちの不幸にも悩み続けるなど、孤独な生活だったという。

「国民新聞」を主宰した徳富蘇峰などは、この勝海舟の邸内の借家に住み、教えを受けて海舟を生涯の師の一人と仰いでいる。

徳富蘇峰は「勝先生は人を正面から叱ることはなく、ひやかすことが恐ろしくうまかった。人に初めて会った時は出会い頭に毒を吐き、それを辛抱した者には必ず親切、丁寧に教えを導いてくれた。」と言っている。

しかし、晩年の勝海舟のことはあまり良くは思っていなかったようで「惜しいのは、あまりにも多弁」とも書き残している。

 

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明治32年(1899)、勝海舟は風呂上がりに倒れ、脳溢血で死去。享年75。

最期の言葉は「これでおしまい」だったという。

 

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