大河ドラマ西郷どん(せごどん)
於一(おいち)/篤姫・天璋院
大河ドラマ西郷どんで、北川景子が演じるのが於一こと、のちの篤姫。
養父・島津斉彬の御前で開かれた相撲大会で西郷吉之助(隆盛)を気に入り、将軍家への嫁入りのために江戸に行ってから、西郷と再会を果たして西郷の人柄に惹かれていく悲しいラブストーリー的要素もこの大河ドラマでは含んでいます。
今回は大河ドラマの主役にも抜擢され、すでに有名な人物となっている於一(篤姫)について改めて簡単に紹介します。
於一(おいち) / 篤姫・天璋院
於一(篤姫)は、天保6年(1836年)に島津分家・島津忠剛の長女として生まれた。「於」は尊称で、名が「一」(いち、かつ)。
幼い頃より囲碁や史書を詠むことを好み、男子の通う塾に男装して潜り込んだり、下級藩士と身分の差を越えて交流するなど型破りな行動を繰り返していた於一(篤姫)行動力を、藩主・島津斉彬が目をつけて嘉永6年(1853年)に養女とした。
於一(篤姫)は斉彬から一橋慶喜を将軍継嗣にするよう密命を受け、安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕の養女となって、老女・幾島に厳しく教育されたあと13代将軍・徳川家定に輿入れした。
将軍・家定との縁組については、将軍継嗣問題で一橋派であった斉彬が、於一(篤姫)を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと考えていた。
しかし、南紀派が多数を占める大奥での慶喜擁立工作は難航。於一(篤姫)は一橋慶喜を推薦するものの、安政5年(1858年8)に家定と斉彬が相次いで死去してしまう。
家定の死を受け、後継の14代将軍には紀州藩主・徳川家茂が就任することとなった。
また、夫に先立たれた於一(篤姫)は落飾して「天璋院」となった。
於一(篤姫)は、若き将軍・家茂を後見して徳川家を守ろうとするが、大奥の政治介入を嫌う大老・井伊直弼と対立。
井伊直弼は公武合体政策を押し進め、文久2年(1862年)には朝廷から家茂の正室として皇女・和宮が大奥へ入る事になった。
この和宮が家茂の御台所として大奥に入ると、京出身の女官達と大奥女中たちが激しく対立。
於一(篤姫)は両者の関係調整に腐心し、すれ違いながらも和宮との仲は少しずつ認め合っていくこととなる。
その後、薩摩藩が武力で幕府に改革を迫ると、於一(篤姫)は繋がりを疑われて苦悩する日々が続く。
そこへ長州征伐に赴いていた将軍・家茂が死去。
その後、将軍となった慶喜が朝廷に大政奉還を断行すると、於一(篤姫)ら困惑するが、徳川家は自分が守ると表明して大奥を結束させた。
於一(篤姫)は、新政府軍との戊辰戦争で敗れた慶喜を救う事を約束し、江戸総攻撃の直前に勝海舟に養父・斉彬の書状を持たせて新政府軍のもとに赴かせ、西郷隆盛の心を動かして江戸城無血開城へと導いた。
そして於一(篤姫)は、江戸城の明け渡しに混乱する奥女中たちに、全員の行く先は自らが責任を持つと宣言し、大奥を立ち退いた。
大奥を出てからの於一(篤姫)は鹿児島には戻らず、一橋邸をはじめ東京の各地を転々として、自由な生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟や静寛院宮(和宮)とも度々会っていた。
生活に困窮することがあってもの薩摩藩からの金銭援助を断り、あくまでも徳川家の人間として生きたと言われる。
また、徳川宗家16代・徳川家達に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどもしていた。
明治16年(1883年)、於一(篤姫)は徳川宗家邸で脳溢血で倒れ死去。享年49歳。
於一(篤姫)は、明治維新後に自分の所持金を切り詰めて、元大奥関係者の就職や縁組に奔走しており、死後に確認された所持金は3円(現在の6万円ほど)しかなかったといわれている。