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西郷どん(せごどん)奄美大島編裏話:西郷と愛加那の離島生活中に動いた日本の歴史を紹介!

投稿日:2018年5月20日 更新日:

大河ドラマ西郷どん(せごどん)
本編裏話①

西郷と愛加那の奄美大島生活中に動いた日本の歴史を紹介!

大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第17話で月照と心中をはかった西郷吉之助は、第18話で奄美大島に流されて生活をすることになりました。

この奄美大島編では、吉之助は愛加那(とぅま)と知り合って結婚し、子宝にも恵まれます。

しかし、吉之助が幸せな時を過ごす一方で、日本の歴史はめまぐるしく動いていました。

今回は、西郷吉之助が奄美大島で過ごした約3年の間に起きた日本の歴史の出来事について簡単に紹介します。

 

 

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安政6年(1859)

1月12日(西郷)

「菊池源吾」と名を変えた西郷吉之助が奄美大島の龍郷に到着。

西郷は、ひとまず島の有力者である龍佐民の屋敷に身を寄せますが、すぐに退去して美玉新行(みだましんこう)という者から空き家を借り、自炊生活を始めました。

島民たちは当初、西郷のことを気味悪がり、西郷も方も島の風俗や環境にとまどい、島民たちに嫌悪感を抱いていました。

しかし、徐々に島の生活に慣れていった西郷は、龍佐民からの依頼で子供たちに読み書きを教えるなど親しくなっていき、「とぅま(のちの愛加那)」と出会うことなります。

 

奄美大島の権力者「龍佐民」とは

 

 

奄美つまんねぇ・・・

出典:https://www.instagram.com/

 

10月7日

安政の大獄によって幕府に捕らえられていた越前福井藩士・橋本左内が、将軍継嗣問題に介入したことを問われて頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首となりました。25歳の若さでした。

奄美大島の西郷は、橋本左内の死を手紙で知ることになり、激しく落胆しました。

西郷は「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」と言うほど、橋本左内の深い見識を評価していました。

 

安政の大獄で散った越前の藩医「橋本左内」とは

 

10月27日

安政の大獄で捕らえられていた桂小五郎、高杉晋作らの師でもある長州藩士・吉田松陰が斬首されました。

幕府は尊王攘夷の急先鋒・梅田雲浜との関係を調べるため、吉田松陰を投獄していました。

しかし、吉田松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白、幕政を改めるよう進言し、この日に伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処されました。享年30。

 

キレた井伊直弼が行った「安政の大獄」とは

 

11月8日(西郷)

西郷吉之助と愛加那が結婚。

奄美大島に来て10カ月、西郷は島妻(あんご)の申し出をはじめは断っていました。

しかし、島で世話になっている龍佐民から遠戚にあたる「とぅま」との結婚を勧められて結婚を決意しました。この時、西郷は33歳、とぅまは23歳。

西郷は「とぅま」に愛しい人を意味する「愛加那」という名前を与え、深く愛していきます。この日の結婚式は媒酌人が立ち、祝い膳が用意された正式な結婚式だったといいます。

 

西郷隆盛の2番目の妻「愛加那」とは

西郷の奄美大島での愛加那との生活」について

愛加那がしている入れ墨「ハジチ」とは

 

 

おめでとうございもす!

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安政7年/万延元年(1860)

1月18日

西郷が奄美に来てから、約1年が経過。この日、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣されました。

開国後、最初の公式訪問団でした。

また、護衛の名目で『咸臨丸』も派遣され、艦長格として勝海舟が乗船し、通訳としてジョン万次郎、また福澤諭吉も乗船していました。

一行は37日後、サンフランシスコへ到着しています。

 

 

今回の渡米は「ひとり」じゃない!

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2月5日

横浜で、オランダ人船長のW・デ・フォスと、N・デッケルが斬殺されました。

オランダは幕府に犯人の検挙と処刑を要求したが、犯人は捕まらず不明のまま。

殺害された二人はフリーメイソンの会員といわれ、葬儀にはメンバーが儀式用正装のエプロンを着用し参列しました。

この事件により、幕府はオランダに1,700両を支払い、これが日本の外国に対する賠償金支払いの初例となりました。

3月3日

おそらく西郷が奄美にいる間に起きた一番の重大事件「桜田門外の変」が発生、大老・井伊直弼が暗殺されました。

奄美大島に隠れなければならなかった原因『安政の大獄』を主導した大老・井伊直弼は、季節外れの雪の中で水戸脱藩浪士たちの襲撃を受け命を落とします。

この事件には、西郷と共に江戸にいた有村俊斎の弟たち(有村雄助・次左衛門)が関与しており、実際に井伊直弼の首をとったのは有村次左衛門でした。

西郷は、この事件を手紙で知り「天誅」が下ったと喜んだといいます。

また、この事件から尊王攘夷志士たちの過激な行動が目立つようになっていきました。

 

愛加那とイチャつく間に起きた「桜田門外の変」

 

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バイバイ!

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3月18日

元号が「安政」から「万延」に改元。

 

12月4日

13代将軍・徳川家定の前で通訳として活躍したことのある米国駐日総領事館のヒュースケンが攘夷派薩摩藩士に殺害されました。

ヒュースケンはアメリカだけでなく、イギリスやプロイセン(ドイツ北部の国)の通商条約締結交渉にも通訳として活躍していました。

襲ったのは攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士・伊牟田尚平と樋渡八兵衛ら7名。

刀で刺され両脇を負傷したヒュースケンは、馬で逃走しますが落馬し、駆けつけた役人たちによって宿舎に運ばれましたが、医師の手当も空しく翌日死去しました。享年28。

ちなみにヒュースケンは日本人女性「つる」との間に子供をもうけています。

 

ハリスが連れてきた通訳「ヒュースケン」とは

 

 

ちょっと何言ってるかわかんない(下段左)

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文久元年/万延2年(1861)

1月2日(西郷)

この日、西郷吉之助と愛加那の間に長男・菊次郎が誕生しました。

長男なのに「次郎」と付けられた理由は、西郷隆盛には台湾ですでに長男をもうけていたためだとか、西郷が薩摩に戻って正式な妻を迎えた時に生まれる子を嫡子にするため、一歩下がって「次郎」としたなど様々な説があります。

 

西郷隆盛と愛加那の子「西郷菊次郎」とは

 

 

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2月19日

元号が「万延」から「文久」に改元。

 

 5月15日

長崎大浦居留地に日本初のボウリング場が開設されました。

 

 5月28日

攘夷派水戸藩浪士14名が、東禅寺にある英国駐日公使館を襲撃しました。(第一次東禅寺事件) 

英国公使・オールコックが条約で定める国内旅行権を主張して陸路で江戸へ旅したことに、尊攘派の志士らは「神州日本が穢された」と怒り、公使館内に侵入。

しかし、公使館の警備に就いていた旗本らが応戦して、オールコックは危うく難を逃れました。

攘夷派浪士たちは逃走しましたが、ほとんどの者が逃亡の末に切腹・斬首などに処されました。

その後、オールコックは幕府に対し厳重に抗議し、英国水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いを求め、事件は一応解決となりました。

 

8月?日

土佐出身で江戸留学中であった武市半平太らによって「土佐勤王党」が結成されました。

「土佐勤王党」は尊王攘夷思想とともに、安政の大獄により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐことを目的としていました。

武市半平太は最終的に200人超の参加者を集め、土佐における尊攘運動の一大勢力を形成し、土佐藩参政・吉田東洋に何度も藩を挙げての運動を訴えますが、却下され続けたために、のちに暗殺事件を起こすことになります。

ちなみに、土佐における最初の加盟者でもあった坂本龍馬は、武市半平太らと行動を共にするのは短い間でしたが、その後も交流は続けています。

 

大河ドラマ「龍馬伝」より

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10月20日

孝明天皇の異母妹・和宮親子内親王が、14代将軍・徳川家茂との婚儀のため京都を出発しました。

幕府からの再三の申入れを、孝明天皇は公武一和の立場から「将来、鎖国に戻る」との説明を受け入れて和宮降嫁を了承し、この日に和宮一行は御所を出立しました。

行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されました。

沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれました。

 

12月20日(西郷)

西郷吉之助が藩より帰還命令を受けました。

薩摩藩主の父・島津久光は、自身の存在感を示すために京都への出兵を計画し、大久保一蔵(利通)の勧めもあって、中央政界に顔の広い西郷吉之助の帰藩を許しました。

奄美大島では、愛加那の妊娠が分かり西郷は新居を建設していましたが、完成の翌日にこの帰還命令が届きました。

島妻(アンゴ)の愛加那を連れ帰ることはできない西郷は、愛加那たちに新築の屋敷と田を与えて龍郷を離れました。

この半年後に、愛加那は西郷の一人娘「菊草」を産むことになります。

 

西郷隆盛と愛加那の娘「西郷菊草」とは

 

 

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12月22日

文久遣欧使節団がヨーロッパへ出発しました。

幕府が欧米各国との修好通商条約で交わした開港開市延期交渉などのため、ヨーロッパに使節団が派遣されました。

この使節団にも福沢諭吉が一行に加わっています。

翌年4月に到着した一行はロンドン万国博覧会に合わせて滞在し、礼儀正しい態度が欧米人から感心されました。

日本コーナーには、オールコックが収集した品が展示されて現地で絶賛されましたが、使節団一行は「骨董品のような雑具ばかりで粗物のみを出品している」と嘆いたといいます。

これが日本最初の万博出展となりましたが、この5年後のパリ万博には幕府と薩摩藩がそれぞれ参加し、まるで薩摩藩は独立国家のような体裁を取っています。

ちなみにこのパリ万博で、薩摩からは西郷の妹・琴の夫である市来正之丞が派遣されています。

 

西郷琴の夫「市来正之丞」「パリ万博」

 

 

西郷琴の夫・市来正之丞

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文久2年(1862)

1月15日

尊攘派の水戸浪士6人が老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた「坂下門外の変」が発生しました。

桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、幕政を主導していた安藤信正は、井伊直弼の開国路線を継承しており、幕府の権威を取り戻すため公武合体を推進していました。

この政策に基づいて、幕府は和宮降嫁を決定しましたが、尊王攘夷派志士らはこれに猛反発していました。  

水戸藩の尊王攘夷派志士らは襲撃決行直前の1月12日に計画の一部がバレて参加者が幕府に捕まり、計画は大きく狂わされましたが、残ったメンバーだけで実行し、安藤信正の駕籠に刀を突き刺すことに成功します。

しかし、安藤信正は背中に軽傷を負っただけで江戸城内に逃げ込まれてしまいました。

暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く襲撃事件は幕府権威の失墜を加速させ、この事件から安藤信正は4月に老中を罷免されてしまいます。

 

2月11日

14代将軍・徳川家茂と和宮親子内親王の婚儀が行われました。

この婚儀は、和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という立場で行われました。

その後、京都では尊王攘夷を唱える志士が各地から集まり始め、朝廷は薩摩藩・島津久光に市中の警備を依頼。

これに応えた島津久光は朝廷からの信頼を得て、自身が構想する幕政改革案を提出することになっていきます。

 

篤姫を嫌う少年将軍「徳川家茂」とは

 

2月15日(西郷)

西郷吉之助が鹿児島に戻り、大久保とともに島津久光に謁見しました。

西郷は島津久光の計画に真っ向から反対し、前藩主・斉彬と同じことができるはずがないと言い切って、二人の確執は深まっていきました。

 

西郷生涯の敵となる「島津久光」とは

 

 

バカにしやがって!!

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