大河ドラマ西郷どん(せごどん)
ヒュースケン
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第14話で、13代将軍・徳川家定と対面してアメリカ大統領の親書を渡すハリス。
その傍らで通訳として同席したのがヒュースケンというオランダ人です。
当時の日本は、外国との公用語はオランダ語しか採用していませんでした。
このため、ハリスは英語をオランダ語に訳して幕府側に伝えるために、このヒュースケンを連れてきたのです。
今回は、この家定との会見後に悲劇を迎えてしまう通訳・ヒュースケンについて簡単に紹介します。
ヒュースケンの妻と子?
出典:http://ochakai-akasaka.com/
ヒュースケン
ヒュースケンは、石鹸製造業者を父に持つオランダ人で、15歳で父を亡くして家族とともにアメリカに渡り、アメリカ国籍を取得。
貧しい暮らしの中でヒュースケンは、英語とオランダ語のできた人物として白羽の矢が立ち、アメリカ公使通訳として採用され、ハリスと共に1856(安政3)年に下田にやってきます。
ちなみに、ヒュースケンはオランダ語、英語以外にも、フランス語、ドイツ語についても堪能だったようです。
しかし、当時の日本は攘夷の嵐が吹き荒れており、ヒュースケンたちは幕府の役人には後をつけられ、人々の目は冷たいものでした。
そんな中、ハリスは大統領の親書を提出するためと江戸出府を願い出ますが、許可が下りず難航。
江戸出府が叶わなかったハリスたちは、下田で和親条約改訂のため交渉を行って1857年(安政4年)に下田協定を調印させて機会を探りました。
その後、アメリカ軍艦が下田へ入港し圧力を加えたため、幕府は危機感を感じてハリスたちの江戸城への登城を許可します。
安政4年(1857年)、ついにハリスはヒュースケンを連れて13代将軍・徳川家定に謁見、その場で親書を手渡すことができました。
大河ドラマ西郷どんでも、この場面は描かれていますが、ヒュースケンは家定の奇行の理由まで通訳し、ハリスは困惑しています。
親書を提出したハリスは、すぐに幕府にアメリカとの通商開始を要求しますが、幕府官僚たちは二の足を踏みます。
いくら政権を担っている幕府と言えども、朝廷の勅許なしでの調印は認めることができなかったからです。
しかし、ハリスはイギリスなどの諸外国の日本侵略が間近に迫っていると危機感を煽って幕府を説得。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約締結をさせました。
これらのハリスと幕府との交渉には、常にヒュースケンが通訳として活躍していたから成し遂げることができたのでしょう。
こうして、ハリスは初代駐日公使となり、下田から江戸の麻布善福寺にアメリカ公使館が置かれ、ヒュースケンは善福寺門前の善光寺に滞在することになりました。
ヒュースケンはアメリカだけでなく、イギリスやプロイセン(ドイツ北部の国)の通商条約締結交渉にも通訳として活躍しました。
当初、プロイセンとの条約締結は頭に無かった幕府にとって、ドイツ語のできたヒュースケンの存在は頼りになる存在であり、また余計なお世話であったかも知れません。
現に、プロイセンとの交渉にあたっていた外国奉行・堀利熙は、老中・安藤信正との口論の後に自害をしています。
1861年(万延元年)、幕府とプロイセンとの条約が締結される直前、ヒュースケンはプロイセン王国使節の宿舎であった芝・赤羽接遇所から善福寺への帰路の途中に突如襲撃を受けます。
襲ったのは攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士・伊牟田尚平と樋渡八兵衛ら7名。
刀で刺され両脇を負傷したヒュースケンは、馬で逃走しますが落馬。
駆けつけた役人たちによって善福寺宿舎に運ばれましたが、医師の手当も空しく翌日死去しました。享年28歳。
ヒュースケンの遺体は、善福寺が土葬が禁止だったため、光林寺に葬られました。
このヒュースケン殺害事件には、各国が猛烈な抗議を行っていますが、雇い主のハリスだけは参加していません。
その後、ハリスの仲裁により幕府はヒュースケンの母・ジョアンネに1万ドルを支払い事件を落着させました。
ヒュースケンの日記は、当時の日本を知る貴重な資料となっていて、その中でハリスは富士山に感動していたり、混浴の様子を見に行ったりしていたことが書かれています。
またヒュースケンは、「つる」という女性との間に子供をもうけていたようで、オランダには「Madame Heusken」と書かれた子供を抱く女性の写真が存在しています。