はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【内藤高治】です。【内藤高治】は高野佐三郎と共に剣道界に大きな影響力を持ち、「西の内藤、東の高野」と並び称された伝説の剣豪です。それでは【内藤高治】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
内藤高治
名前:内藤高治
流派:北辰一刀流
出身:常陸国
年代:江戸時代末期~昭和(1862~1929)
警視庁へ
内藤高治は文久2年(1862) に水戸藩士である市毛家の六男として生まれました。
父は藩の弓術師範と務めた市毛高矩、母は「北辰一刀流」の剣術師範・渡辺清左衛門の娘という武芸の家柄であり、高治も幼ない頃より漢籍、水練、剣術を学んでいました。
動乱の幕末において、水戸藩は天狗党の乱などの内乱で混乱していましたが、高治は12歳で「北辰一刀流」剣術師範・小澤寅吉の『東武館』に入門し腕を磨きました。
のちに警視庁で同僚となる門奈正ともここで出会っています。
20歳の時、親戚の内藤家の養子となった高治は、明治16年(1883)に上京して榊原健吉の道場を中心に稽古に励み、翌年には全国へ武者修行の旅に出て、山籠もりするなど苦行も行いました。
やがて東京へ戻った高治は、警視庁の撃剣世話掛・川崎善三郎、高野佐三郎らに試合を挑み、連勝したことで明治21年(1888)に一等巡査として任官し、下江秀太郎の斡旋で『東武館』の同門である門奈正と同じ警察署に配属されました。
この頃、高治を頼って上京してきた甥に力士になること勧め、反対する親族を押し切って入門させていますが、この甥は『常陸山谷右エ門』としてのちに横綱まで昇進することになります。
明治27年(1894)、日清戦争が勃発すると、警視庁は朝鮮の居留民保護のために高治や門奈正ら撃剣世話掛を派遣しました。
この時、高治は「かねてより 思ひ込めにし武士の 弓矢心を 今日や晴らさん」と詠み、意気込んで海を渡っていきましたが、現地ですぐに急性肋膜炎を発症して帰国することになります。
西の内藤
その後、高治は大日本武徳会から精錬証を授与されると、警視庁に勤務しながら道場『養真館』を開き、東京専門学校の撃剣部師範も務めました。
明治32年(1899)、大日本武徳会の本部武徳殿が京都に完成すると、高治は奥村左近太、三橋鑑一郎、佐々木正宜、小関教政ら5名が教授方として指名されました。
すると、これを光栄に感じた高治は、東京で築いていた道場などを全て投げうって京都に赴きました。
そして多くの剣士を育てた高治は、やがて高野佐三郎と共に剣道界に大きな影響力を持ち、「東の高野、西の内藤」と言われるようになりました。
この二人は明治34年(1901)の武徳祭大演武会で対戦して引き分けとなりますが、審判を務めていた三橋鑑一郎は「あとにも先にも、あれ以上の試合は見たことがない」と、このときの名勝負をいつまでも語っていたといいます。
明治44年(1911)、高治は大日本帝国剣道形制定の主査委員に任じられて形の統一に尽力。
しかし、こののちに高治は競技化、スポーツ化していく剣道を批判し、天覧試合の開催にも反対しました。
陛下からの勅命であると言われてやむなく開催に協力した高治は「これで日本剣道は滅びた」と嘆き、天覧試合直前の昭和4年(1929)に脳出血で急死しました。享年68。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓
楠正位、伊藤博文なんですね!武専をつくったのは。武士の表芸を学校体育にすること、芸者のセクシーな唄や踊りを子供達に教えること!大事なことをイジりすぎましたね!軟式テニスみたいな剣道、レスリングみたいな柔道、キックボクシングみたいな空手という現代のリアルを理解すべきです。普通の学者の皆さんがこの辺りのはなしを知りません。そのためか日本人論日本型経営などの話しがピンぼけしています。リアルを広め天下をひっくり返しませんか。