はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【川崎善三郎】です。【川崎善三郎】は幕末に生まれ、明治の世に『三郎三傑』と謳われて昭和まで生きた伝説の剣豪です。それでは【川崎善三郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
川崎善三郎
名前:川崎善三郎
流派:無外流
出身:土佐国
年代:江戸時代末期~昭和(1860~1944)
無外流 VS 無外流
川崎善三郎は万延元年(1860)に土佐藩で剣術指南役を務めていた川崎専輔の子として生まれました。諱は重徳。
代々川崎家が伝えていた「無外流」は土佐藩の流儀とされ、幕末の藩主・山内容堂も学んでいた流派でした。
幕末の動乱の最中、善三郎は父から「無外流」を学んだだけでなく、「鏡新明智流」の馬淵桃太郎や「小野派一刀流」の石山孫六らからも剣術指南を受けていましたが、明治維新がなると侍の時代は終わりを告げ、磨きをかけた善三郎の剣も活躍の場を失います。
しかし、榊原鍵吉が撃剣興行を催して成功を収めると、善三郎も明治16年(1883)に馬淵桃太郎が率いる撃剣興行一座の一員として大阪に遠征に参加しました。
ここで善三郎は同じ「無外流」の高橋赳太郎と出会い、試合を行います。
この時、実力伯仲の両者の勝負はなかなか決着がつかず、引き分けかとも思われました。
しかし、審判を務めていた秋山多吉郎は「死ぬまでやれ」と叱咤したため、二人は試合を止めることもできず、組討ちまでもつれこんだ末に意識を失い倒れてしまいました。
二人は気が付いたときには並んで氷枕に寝かされていましたが、この死闘は行き場所を失っていた剣士の間で高く評価されたといいます。
三郎三傑
高橋赳太郎との死闘で名を馳せた善三郎はその後、明治19年(1886)に上京して警視庁撃剣世話掛となり、警察署員に撃剣を指導しました。
また、善三郎自身も主任教師・雨宮真三郎の指導を仰ぎ、山岡鉄舟の道場『春風館』にも通いました。
警視庁や春風館での稽古派は過酷を極め、稽古のあとで便所でしゃがむと立ち上がることができないため、便所の天井からは縄がたらされていたといいます。
そして厳しい稽古の中で腕を磨いた善三郎は、同時期に採用された高橋赳太郎と高野佐三郎と合わせ『三郎三傑』と謳われるようになりました。
この頃、善三郎たち『三郎三傑』は警視庁に道場破りが現れた際には最初に立ち合うことになっていたようです。
薙刀術の長尾俊久との試合では、股間を突いてくる相手の技に対抗するため、善三郎は睾丸を綿で包んで戦い、面で一本勝ちしたといいます。
やがて山梨県警察部で巡査教習所教師となった善三郎は、明治36年(1903)に地方巡業に来ていた東京相撲の横綱・常陸山一行の訪問を受けました。
このとき、関脇・稲川が善三郎と勝負したいと言い出し、善三郎は「稲川が竹刀で善三郎に触れたら稲川の勝ち。善三郎が稲川を倒したら善三郎の勝ち」という条件で試合を行います。
もともと試合に乗り気でなかった善三郎は、稲川の支度を手伝う際に面紐をきつく締めて息がつまるようにし、竹刀を振り回す稲川の攻撃をかわして、息切れしたところを足をかけて倒しました。
やがて高知に戻った善三郎は弟子の育成に励みますが、「形なんか覚えんでええちや」と言って「無外流」の形を一度も見せなかったといいます。
明治44年(1911)、大日本帝国剣道形制定の委員に選ばれて「形」の統一に尽力した善三郎は、剣道界の重鎮として活躍し、昭和19年(1944)に死去しました。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓