はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【勝海舟】です。【勝海舟】は幕末から明治に変る激動の時代に重要な役割を果たした英雄の一人ですが、実は幼い頃は剣術三昧の毎日を送っていたとされる伝説の剣豪でもあります。それでは【勝海舟】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
勝海舟
名前:勝海舟、勝麟太郎、勝義邦、勝安芳
流派:直心影流島田派
出身:江戸
年代:江戸時代後期~明治時代(1823~1899)
稽古の無限ループ
文政6年(1823)に御家人の家に生まれた勝海舟は混迷を極める時流の中で、いかに血を流さず徳川の世を終焉させるかという難題を解く立役者となりました。
狂信的な尊王攘夷思想、忠義心からくる佐幕思想が叫ばれる中、海舟の考えは到底受け入れられるものではありませんでしたが、一歩引いた目で見れば日本を食い物にしようとする外国の介入を避けるため、海舟はとにかく「日本」という立場で世の中を冷静に分析していました。
この海舟の考えは「遠山の目付け」という剣術の教えが役に立っていたともいわれます。
この言葉は近くの敵ばかりを見ていると真の敵の目的がわからないので、敵を含めて大きく見ることが重要であるとの教えです。
政治的活躍ばかりが取り上げられる海舟ですが、実は幼い頃は剣術漬けの毎日を送っていました。
実際、海舟も「本当に修行したのは剣術ばかりだったよ」と後に語っています。
海舟がここまで言うほど修行したきっかけは、「幕末の剣聖」とも言うべき男谷精一郎が海舟の父である小吉の従兄弟であったため。
この縁で男谷道場に通っていた若き海舟は、師範である島田虎之助に厳しく鍛えられました。
癇癪持ちの短気者として弟子たちから恐れられていた虎之助は「せっかくやるのであれば本物でなければ意味がない」と海舟を諭し、常識では考えられないほどの特訓を行っています。
海舟は毎日稽古が終わったあとの夕方から稽古着姿で王子権現に行き、拝殿の礎石の上で座禅を組まされて心の修行をさせられました。
そして立てば剣の素振りを行い、座ればもう一度心の修行へ。
これを夜明けまで5~6回も繰り返し、帰ってからすぐに朝の稽古が始まります。
そして夕方に稽古が終われば、再び王子権現へ向かった海舟。
この繰り返しを1日も欠かさずに行っていたと本人が語っています。
この厳しい修行の中で海舟は何事にも動じない心を得て、激動の時代を乗り越える胆力を身につけていったのです。
おわりに
一体、勝海舟はいつ寝ているんでしょうか?
海舟はささいな事を学ぼうとする人間に対して「そんなことは学者先生でも捕まえて聞けば分かること。そんな時間があるなら座禅しろ」と言っていたようです。
これは一見すると「遠山の目付け」の応用のような名言だと思えますが、実はなんだかんだ言いながら海舟は座禅しながら寝てたんじゃないのか?
この人は口が超絶上手いから、鵜呑みに修行の話を信じる気になれないんだよなぁ。
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