はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【薬丸兼陳】です。【薬丸兼陳】は示現流から派生し、幕末には多くの薩摩藩士が剣を振るった「薬丸自顕流」の祖とされた伝説の剣豪です。それでは【薬丸兼陳】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
薬丸兼陳
名前:薬丸兼陳
流派:薬丸自顕流
出身:薩摩国
年代:江戸時代初期(1607~1689)
示現流
薬丸兼陳は慶長12年(1607)に島津家中の薬丸兼利の子として生まれました。
「示現流」開祖の東郷重位の東郷家と薬丸家は近所であり、昔から親戚関係のような間柄にありました。
このため重位も18歳の時に兼陳の祖父・薬丸壱岐守に親代わりを務めてもらって初陣を飾っています。
重位はこの薬丸家の恩義に報いるため、孫の兼陳に対して熱心に「示現流」を指導していました。
また、兼陳は示現流2代・重方と同じ年であったため、共に切磋琢磨しながら稽古に励んでいったと思われます。
兼陳は16歳のときに二段目を授かり、20歳の頃には免許皆伝して弟子を取ることも許されました。
その後、「示現流」の達人として重位の五高弟の一人に数えられるほどの腕前となった兼陳は、挑まれた試合に全てに打ち勝って剣名を高めていったといいます。
兼陳の気合は「肥前焼の茶碗が掛け声に呼応して割れる」といわれ、兼陳が稽古している時は茶碗を伏せておいたと伝わっています。
83歳まで生きた兼陳は重位の教えを知る直弟子として流派内で重責を担い、兼陳の子孫たちもまた「示現流」を学んで、薬丸家が「示現流」の稽古を代わって務めることもありました。
兼陳以降の薬丸家には家伝として「野太刀の技」が伝わっていて、のちにこれを元してに薬丸兼武が「野太刀自顕流」として独立し、以後は「薬丸自顕流」とも呼ばれて薩摩藩内に広まっていきました。
特に「薬丸自顕流」は薩摩藩の下級武士たちによって郷中教育の中で学ばれ、幕末期に新選組の近藤勇が「薩摩っぽの初太刀は外せ」と隊士たちに指示したことで「薬丸自顕流」の名は薩摩だけでなく、世に広く知られるようになっていったのです。
おわりに
薬丸兼陳が「薬丸自顕流」を名乗ったことはありませんが、子孫たちの頑張りによって開祖としての立場を与えられたのかな?
この薬丸家が残した剣術は、近藤勇も畏れていたように幕末の動乱の中で多くの血の雨を降らした。
気合とともに木を打ち据える薩摩隼人を代表するような稽古風景をよくテレビで目にしますが、あの気合で向かってこられたら新選組でもおっかないんでしょうね。
ところで、茶碗割ってしまうぐらいの兼陳の声量って一体どういうこと?
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓