はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【大山格之助】です。【大山格之助】は西郷隆盛と硬い友情で結ばれた薩摩藩を代表する伝説の剣豪です。それでは【大山格之助】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
大山格之助
名前:大山格之助、大山綱良
流派:薬丸自顕流
出身:薩摩国
年代:江戸時代後期~明治(1825~1877)
薬丸自顕流の達人
大山格之助は文政8年(1825)に薩摩藩士・樺山善助の次男として鹿児島に生まれました。
格之助は薬丸兼武、兼義親子から「薬丸自顕流」を学び、奥伝である小太刀を極め、藩中随一の使い手といわれました。
「薬丸自顕流」の奥義中の奥義である槍止めを極めた格之助は、相手に飛鳥のように飛びかかって槍を打ち落としたといいます。
格之介はこの奥義を駆使し、「鏡智院槍術」の有村俊斎が他流試合を申し込んできた時も難なく勝利し、三年後に猛稽古をした有村俊斎が再び挑んできても結果は同じだったといいます。
やがて、同じ薩摩藩士の大山四郎助の婿養子となった格之助。
時代は尊王攘夷運動が盛んになっており、格之助も西郷隆盛、大久保利通らとともに『精忠組』に参加して活動しました。
また、剣の腕を見込まれていた格之助は藩から命じられて江戸に行き、ここでも多くの逸話を残しています。
ある日、格之助が刀を用いた大道芸人を見物していたところ、近くにいた「直心影流」の長沼笑兵衛が格之助が相当の剣士であることに気づき、道場に招きました。
格之助は道場で師範代と試合することになりましたが、防具をつけた師範代に対して格之助は木刀一本で臨み、立ち上がった瞬間に一撃で打ち倒して周りを驚かせます。
さらに「薬丸自顕流」の技である打廻りを見せると、格之助を招いた長沼笑兵衛は大変感激していたといいます。
また、格之助が西郷隆盛とともに藤田東湖に会った時は、剣の達人であると紹介されたため、「神道無念流」門下であった藤田東湖の紹介で『練兵館』の塾頭と試合をすることになりました。
ここでも格之助は小太刀を一本だけを持ち、防具をつけた塾頭に挑んで立ち上がった瞬間に打ち込みました。
塾頭はあまりに早いので再試合を頼みましたが、格之助は「この道場では亡者が試合をするのか。(実戦なら一撃で終わりだ)」と笑ったといいます。
寺田屋騒動と西南戦争
その後、国父・島津久光の上洛に随行した格之助は、その腕を見込まれて文久2年(1862)の寺田屋騒動で奈良原喜八郎ら7名とともに鎮撫使となり、事件の中心的役割を果たしました。
この時、島津久光は過激派藩士たちが説得に応じなかった場合は上意討ちもあるとして、格之助たち剣術に優れた藩士を選んでおり、実際に戦闘になったこの事件での死者は過激派藩士は6名に対し、鎮撫使側は1名のみとなっています。
個人の腕では達人の域に達していた格之助ですが、兵を率いた戦闘には苦手だったようで、明治元年(1868)の戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府の下参謀になりながらも、庄内藩の反撃で連戦連敗を喫しています。
また、その後の新政府には反感を感じていたようで、長州藩で大楽源太郎が反乱を起こした際は、討伐軍の司令官として鹿児島から派遣されながらも現地到着後に独断で解散を命じて木戸孝允らの怒りを買い、西郷隆盛が詫びる騒ぎとなっています。
それでも格之助は廃藩置県後に鹿児島県の大参事、県令に任命されるなど新政府では重用されていましたが、明治6年(1873)に征韓論争で負けた西郷隆盛らが新政府を辞職して帰ってくると、格之助は私学校設立などを援助して西郷隆盛を助けました。
格之助は新政府に対して租税を納めることを止める一方で、私学校党を県官吏に取り立てて鹿児島県を独立国家のように仕立て上げています。
その後の西南戦争でも格之助は官金を西郷軍に提供していましたが、やがて新政府にその罪を問われて逮捕され、東京に送られて西郷軍の敗北後に長崎で斬首されました。享年53。
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