はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【斎藤歓之助】です。【斎藤歓之助】は「練兵館」の斎藤弥九郎の次男にして「鬼歓」と恐れられたものの、肝心なときの負けの逸話が多い伝説の剣豪です。それでは【斎藤歓之助】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
斎藤歓之助
名前:斎藤歓之助、斎藤歓道
流派:神道無念流
出身:江戸
年代:江戸時代末期~明治時代(1833~1898)
歓之助は弘化4年(1847)、江川英龍の屋敷で行われた江戸の10道場が参加する他流試合に兄・新太郎や練兵館門とともに15歳で参加。
その後、荒っぽい稽古が信条で『力の斎藤』と言われた剣に加え、歓之助は独特の突きを得意技として『鬼歓』との異名をとるようになりました。
嘉永2年(1849)、廻国修行中の新太郎が長州藩で剣術の稽古をバカにしたことをきっかけに、長州藩の藩士たちが上京して練兵館に試合を挑むという事件が発生。
このとき、新太郎は不在であったため、17歳の歓之助が得意の突きで長州藩士たちをことごとく倒し、中には数日間食べ物を飲み込めなくなった者もいたといいます。
一方、九州を訪れていた新太郎が大村藩で実力を示すと、大村藩は藩の剣術改革のために藩士たちを練兵館に入門させました。
この時に練兵館へ入門した大村藩士・荘勇雄が藩主や実父で家老の江頭官太夫に「神道無念流が実用に適する」と説いたことから、歓之助は嘉永4年(1851)に大村藩の江戸詰の馬廻として破格の待遇で召し抱えられることとなりました。
小天狗に負けグセがつく鬼歓
『鬼歓』として有名になった歓之助でしたが、江戸には避けては通れないライバルがいました。
そのライバルこそ、練兵館と並び称された『玄武館』の天才剣士・千葉栄次郎。
千葉周作の次男だった千葉栄次郎は籠手の技が天下一品とされ、のちに『千葉の小天狗』と呼ばれた男です。
二人は有名道場の息子として江戸中に剣名を轟かせていましたが、このときは千葉栄次郎の方が圧倒的に人気が高かったといいます。
試合が行われたのは千葉道場の玄武館。年齢はお互い19歳の時でした。
千葉栄次郎は白い道着に白の袴、対する歓之助は白の道着に黒の袴。
試合前、千葉栄次郎は再三にわたり、歓之助に胴をつけるように頼みましたが、歓之助は首を縦に振りません。
歓之助はもともと胴をつけずに試合することを誇りに思っていました。
しかし、歓之助も勝負師としては一人前と言っていい腕前。
胴はつけませんでしたが、道着の下には何重にも女帯を巻いていました。
三本勝負で行われた試合が始まると、二人は激しい打ち合いを繰り広げましたが、しばらくすると歓之助が上段に構え直した隙をつき、千葉栄次郎が胴で一本を決めました。
胴をつけていない歓之助を周りの者達は心配しましたが、歓之助は平然として二本目に臨みます。
しかし、歓之助が激しい気合と共に千葉栄次郎に迫ると、今度は籠手で二本目を取られてしまいます。
そして焦った歓之助は続く三本目も籠手を決められてしまい、いいところを一つも見せれずに完敗。
ここから『鬼歓』と呼ばれていた歓之助は、肝心な時に負けてしまうという変なジンクスを見せるようになっていきます。
小天狗・千葉栄次郎
大村藩での出世した鬼歓
嘉永5年(1852)、不在の兄・新太郎の代わりに歓之助が長州藩で剣術指導を行い、翌年には大村藩主・大村純熈の御前で新太郎、歓之助と練兵館門人数十人が試合を行って「神道無念流」が高く評価されました。
そして嘉永7年(1854)、歓之助は大村藩士で練兵館塾頭となっていた荘勇雄とともに、江戸から肥前国大村へ移りました。
大村に到着した歓之助は藩主・大村純熈から屋敷と剣術道場『微神堂』を与えられましたが、藩校での指導は許されず、「神道無念流」は歓之助が自邸の道場で教えるという形がとられました。
しかし、藩からは「神道無念流」の稽古を推奨する通達がでていたため、徐々に歓之助は門弟を増やしていきました。
そして大村藩の御流儀であった「一刀流」「新陰流」を学ぶ者が少なくなると、歓之助は剣術師範役に任命されました。
このため、大村藩では「一刀流」「新陰流」の稽古が停止されることになりましたが、一刀流師範役・宮村佐久馬だけは、免許皆伝を受けた師に恩があるので「一刀流」を守りたいと藩主に直接願い出たため、特別に「一刀流」の稽古を続けることを許されています。
また、宮村佐久馬の子・柴江運八郎も父に従って「一刀流」の稽古を続けていましたが、のちに「神道無念流」の稽古を命じられています。
負けても評価が落ちない鬼歓
大村藩で評価されて剣術指南役にまでなった歓之助ですが、この頃にまたしても変なジンクスを見せて試合に負けてしまいます。
相手は九州一の剣豪といわれる松崎浪四郎。
松崎浪四郎は「加藤田神陰流」の使い手で、のちに『位の桃井』と呼ばれた桃井春蔵を破り、歓之助の兄・新太郎にも勝利する人物です。
試合では最初に歓之助が上段から力任せに突きを打ち、のけぞった松崎浪四郎をここぞとばかりに体当たりを食らわせました。
しかし、このまま振り下ろせば歓之助の勝ちというところで、松崎浪四郎は体が泳がせながらも捨て身の胴を打ち込んだのです。
またしても負けてしまった歓之助でしたが、この試合のあとも歓之助と「神道無念流」の評価が落ちることはありませんでした。
やがて荘勇雄が藩校での剣術師範最高職に就任すると、大村藩の剣術は正式に「神道無念流」となり、歓之助も藩主を護衛する『馬副』という部隊の頭取に任命され、隊士には「神道無念流」に精通した者が選ばれました。
プライドを捨てた鬼歓
試合に負けながらも出世していった歓之助は、指導した藩士の中から渡辺昇、柴江運八郎ら有力な剣士を輩出していきますが、ここでまたもや負け試合の記録を残しています。
相手は九州回遊修行に来ていた長州岩国の剣客・宇野金太郎。
宇野金太郎は、荘勇雄のあと練兵館の塾頭となった桂小五郎を、形式上は引き分けながらも強烈な籠手で試合続行不可能にした男です。
さらに、この宇野金太郎郎は剛腕から繰り出す剣だけでなく、性格の悪さも有名でした。
門弟たちが見守る中で行われた試合は、アッサリと歓之助が敗北。
試合後、宇野金太郎は歓之助を完全に見下していました。
これまで自分に勝った相手に敬意を表してきた歓之助も、この時ばかりは怒りが収まりません。
しかし、性格が最悪だといっても相手の実力は紛れもなく本物で、まともにやっても勝てる気がしませんでした。
桂小五郎のこともあり、このままでは練兵館のメンツは潰れてしまうことを恐れた歓之助は悩みます。
そして歓之助がとった方法は、練兵館で無類の強さを誇る仏生寺弥助の招聘でした。
父・斎藤弥九郎ら練兵館の重鎮たちに見出されていた仏生寺弥助は、素行が悪いながらも『斎藤塾の閻魔鬼人』とまで呼ばれ、実力は斎藤兄弟をはるかにしのぐとされた天才剣豪。
プライドを捨てた歓之助はすぐに江戸に手紙を送り、仏生寺弥助と合流して長州岩国の宇野金太郎の道場に乗り込みました。
そして道場では歓之助はまず「この前はお見苦しい試合をしてしまい申し訳なかった」と宇野金太郎に詫びを入れます。
すると宇野金太郎はうなずき「良い心掛けである。何度でも試合に応じても良いぞ」と小バカにしたように答えました。
怒りを抑えつつ歓之助は「では、江戸の練兵館を代表してこの者がお相手致します」と仏生寺弥助を紹介し、試合をさせました。
練兵館の威信をかけたこの試合では、仏生寺弥助が宇野金太郎を圧倒。
十本勝負の途中で宇野金太郎は戦意を喪失し、ガックリとうなだれて自ら負けを宣言しました。
すると歓之助はすかさず、無言で落ち込んでいる宇野金太郎に試合を申し込み、辞退することを許さずに無理矢理に試合をさせて勝利を得ることができました。
仏生寺弥助
おわりに
「鬼歓」の異名をとるほど強かったのは、10代の頃までだった斎藤歓之助。
おそらく超早熟の剣豪だったのかな?
有名剣豪相手ではことごとく敗北を喫し、最後は弟子に政治の道具に利用されるなど、「鬼」の見る影もありません。
「鬼」という立派なあだ名がプレッシャーになったのかも。
宇野金太郎との一件では、プライドをかなぐり捨てた歓之助。
この一件はまるで歓之助が仏生寺弥助という天才剣豪を際立たせるためのピエロのよう。
大村藩ではそれなりに評価されていたんだから、剣豪としての腕はある程度あったんでしょうけど。
でも、やっぱり私は仏生寺弥助推し。だから、漫画のような強さを持つ仏生寺弥助の強さは下の記事で!
あ、歓之助・・・ゴメン・・・
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓