無住心剣流
「無住心剣流」は江戸時代初期に上野国針ヶ谷で生まれた針ヶ谷夕雲正成が創始した剣術です。
夕雲の師である「真新陰流」の小笠原源信斎長治は、上泉伊勢守信綱や奥山休賀斎公重から剣術を学んだあと中国に渡って『八寸の延金』という秘術を会得し、上泉信綱をも超えたといわれる伝説の剣豪です。
師から『八寸の延金』を授かった夕雲でしたが、40歳ごろに本郷駒込の龍光寺・虎白和尚のもとで参禅すると、刀の勝負より心の勝負を重要性を悟って「真新陰流」の流儀を捨て去りました。
夕雲は「高い境地に至った者同士は剣を交える前に相手の力量を知って剣を納める」という『相抜け』の境地の前では、最強の技『八寸の延金』ですら虚構に過ぎないと説き、流派名を『金剛般若経』から取って「無住心剣流」と虎白和尚に名付けられました。
夕雲の門弟・小田切一雲は師と3度立合って3度とも『相抜け』の境地に至って「無住心剣流」の2代目となり、その思想はさらに徹底されていきました。
一雲の門弟には高田源左衛門能種の「神之信影流」、井鳥為信の「雲弘流」などがいましたが、中でも傑出していたのが真里谷円四郎義旭です。
円四郎は25歳の時に一雲より的伝免許を受け、師との2度の試合で2度とも『相抜け』を超えて勝利。
一雲は円四郎の剣を素直に認めて「無住心剣流」を託しましたが、円四郎はあまりにも純粋な剣の理を追い求め続けたため、その神髄を理解できる者が現れず「無住心剣流」はわずか3代で幻の剣術となってしまいました。
ちなみに小笠原長治の弟子・神谷伝心斎直光も晩年は儒教や禅に傾倒して流儀を離れ、独自の剣術「直心流」を興し、これが幕末に隆盛する「直心影流」に繋がっていったといわれます。
「無住心剣流」の剣豪
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