はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【千葉栄次郎】です。【千葉栄次郎】は北辰一刀流の千葉周作の後継者として天才の名を欲しいままにしつつ、残念ながら若くして亡くなったしまった伝説の剣豪です。それでは【千葉栄次郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
千葉栄次郎
名前:千葉栄次郎、千葉成之
流派:北辰一刀流
出身:江戸
年代:江戸時代末期(1833~1862)
千葉の小天狗
千葉栄次郎は、天保4年(1833) に「北辰一刀流」を開いた千葉周作の次男として生まれました。
幼少時から「北辰一刀流」の道場『玄武館』で英才教育を受けた栄次郎は、若くして奥義を極め『千葉の小天狗』とあだ名されて10代で名人と謳われるようになりました。
そして栄次郎は玄武館と同じく江戸三大道場とされた練兵館の「神道無念流」斎藤歓之助に勝って以後、幕末の剣豪たちと立合っていきます。
出典:https://kappapedia.blogspot.com/
同じ玄武館で学んで「鬼鉄」と呼ばれていた山岡鉄舟は、栄次郎と試合するにあたり約20人の同輩と先に試合させた上で、疲れたところを狙って勝とうとしていました。
しかし、栄次郎は連戦にも全く疲れることがなく、竹刀の柄が途中で折れても勝ち続け、鉄舟たちは栄次郎の強さをつくづく思い知って降参する羽目になったといいます。
また、嘉永2年(1849)、「直心影流」の島田虎之助、「鏡新明智流」の桃井春蔵など名だたる剣豪たち18名を集めた試合では、栄次郎は全員に勝ち越して勝率は9割を超えたといいます。
その後、栄次郎は「直心影流」の柿本清吉との三本勝負で全敗することがありました。
しかし、負けた栄次郎はその場で少し考えて再戦すると、柿本清吉の技を使って全勝します。
数日後、改めて二人が立ち合った際には、すでに技が栄次郎によって完全に使いこなされていて、柿本清吉は完敗。
「到底及ぶものではない。名人というべき人であろう」と柿本清吉は認め、この体験を一生の語り草としたといいます。
また、嘉永4年(1851)に「加藤田神陰流」の武藤為吉と、嘉永6年(1853)には「忠也派一刀流」の石山孫六と試合をして栄次郎は両者に負け越しました。
しかし、後日に石山孫六と再戦した際には栄次郎が勝ち越しており、一度敗れた相手との再戦では負けることがなかったといわれます。
謎の行動
栄次郎は嘉永7年(1854)、「鉄人流」の牟田高惇に執拗に試合を申し込まれていましたが、なぜか理由をつけて断わり続けました。
このことを牟田高惇は日記で栄次郎のことを『腰抜けの極み』と罵倒しています。
また、栄次郎は父・周作の代理として水戸藩の弘道館へ剣術指南に行った際に、曲芸的な技で相手を翻弄して打ち負かしました。
この行動は水戸藩士たちを怒らせることになってしまい、栄次郎は後日陳謝しています。
このことで栄次郎は『曲遣いの元祖』などと批判されたりしていますが、栄次郎に勝ったことのある武藤為吉は「そのように扱われる方が未熟である」と語っています。
のちに栄次郎は水戸藩に仕え、文久2年(1862)に大番頭にまで出世しましたが、昇進の翌日に急逝。享年30。
長男の千葉周之介は明治16年(1883)、山岡鉄舟の後見で玄武館を再興し、警視庁撃剣世話掛を務めています。
息子の周之介
おわりに
千葉栄次郎って天才にありがちな人の気持ちが分からないサイコパスってやつでは?
おそらく、勝ったから嬉しいとか、負けたから悔しいとかっていう普通の感情はなかったんじゃないかなと。
やりたい時は試合をするし、面白くなければ遊びで試合するし、相手のことなんかどーでもいいみたいな。
負けた相手との再戦も「たまたま」機会があったからやっただけで、別にどっちでもよかったって感じがします。
こういう人間に対して「相手してくれないからムカつく」とか、「気に食わない」なんて感情を持つのは時間の無駄。
珍獣のような目で見るのが正解だと思います。
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