はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【沖田総司】です。【沖田総司】は誰もが認める新選組最強の若き天才剣士で、儚い最期からドラマでは常に美男子に描かれ、土方歳三と人気を二分している伝説の剣豪です。改めて説明す売ることは少ないですが、この記事では【沖田総司】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
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沖田総司
名前:沖田総司、沖田房良
流派:天然理心流
出身:江戸
年代:江戸時代末期(1842~1868)
試衛館最強の剣豪
沖田総司は天保13年(1842)に白河藩士・沖田勝次郎の長男として江戸屋敷に生まれた。名は春政、後に房良。幼名は宗次郎。
弘化2年(1845)に父が急死すると、沖田家は総司が幼少のために跡目相続ができなかったため、長姉のミツが養子・林太郎を迎えて家督の存続を図りました。
この時、ミツはいったん「天然理心流」の3代目・近藤周斎の養女となり、そこから沖田家の林太郎に嫁入りする形をとったため、総司は近藤勇の義弟にあたることになります。
総司は9歳で「天然理心流」を学び始め、19歳の若さで試衛館の塾頭になりましたが、すでに「本気で立合えば師の近藤勇も敵わないだろう」と言われるほどまで腕を上げていました。
永倉新八も後年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては総司に子供扱いされた」と語っています。
得意技は『三段突き』と呼ばれるもので、「突き、引き、突き」の3つの動作を一瞬のうちに連続して行う、または「喉、胸、水月」の3ヵ所を自在に突き分ける技とも言われています。
その後、総司は試衛館あげての浪士組への参加、京都における新選組の結成、治安維持のための活動など、常に近藤勇の近くで行動しました。
総司にとっては近藤勇は義兄であり、剣の師であり、武士としての生き方の手本でもある、絶対的な存在でもあったのです。
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天才剣士の儚い最期
普段は朗らかで人懐っこい総司ですが、いざ剣を握ると人が変り、情け容赦のないエゲツナイ剣を振るったといいます。
総司の指導を受けた者は「荒っぽくて、すぐ怒る」と近藤勇より恐れられていたといいます。
また、総司も酒は飲みましたが、近藤勇や土方歳三のように京や大坂の女に興味を示すこともなく、剣のみを愛して周りからは「晩年必ず名人に至るべき人」、「局中第一の剣客」、「天才的剣法者」などと評価されています。
新選組が天下に名を轟かせた元治元年(1864)の池田屋事件では、土方歳三の別動隊が到着するまでの間、総司は近藤勇ら5人と共に20人の浪士を相手に戦い続けていました。
この時、総司は長州藩士・吉田稔麿を一太刀で倒し、肥後藩士・松田重助の短刀を打ち落として首を刎ねたといわれています。
そしてこの激闘の最中、結核を患っていた総司は血を吐いて倒れました。
その後、総司は人を斬った記録は、試衛館以来の幹部である山南敬介が脱走して捕らえられた際に介錯を命じられた時のみ。
山南敬介を兄のように慕っていた総司ですが、このときは動揺することなく淡々と役目を果たしています。
やがて病状が悪化した総司は、その後の鳥羽・伏見の戦いなどに参加できず、近藤勇が斬首された2カ月後、25歳の若さでこの世を去りました。
一説には、近藤勇の死を知らされないまま、隠れ住んでいた納屋で誰にも看取られずに亡くなったといわれています。
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