はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【中西忠兵衛】です。【中西忠兵衛】は竹刀剣法を定着させた江戸第一の中西道場の4代目、数々の幕末の剣豪の師匠でもある伝説の剣豪です。それでは【中西忠兵衛】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
中西忠兵衛
名前:中西忠兵衛子正
流派:中西派一刀流
出身:石見国?
年代:江戸時代後期(?~?)
竹刀の考案
江戸時代初期、剣術の試合は『真剣』または『木刀』、刃が付いていない真剣『刃引』と呼ばれるもので行われていました。
そんなもので試合を行えば当然、死を招くケースも多々あり、剣で名を成そうとしても若くしてこの世を去ってしまう者も多くいました。
このため、死んだり重傷を負ったりしないように剣術の稽古は自然に『形』が中心となって剣舞のようなものに変わってしまいます。
しかし、それでは稽古にならないと工夫されたのが竹刀と防具で、これによって打合稽古が可能となりました。
この打合による稽古を『試合剣術』といい、これは長沼四郎左衛門国郷の「直心影流」によって始められました。
その後、鉄の面、胴を開発し『試合剣術』を積極的に推進したのが「中西派一刀流」の2代目・中西忠蔵子武で、ここに現在の竹刀剣道の原型が成立したのです。
一刀流
戦国時代、伊藤一刀斎に始まり小野忠明に引き継がれた「一刀流」は、のちに宗家を継ぐに値しない者があったため、道統は高弟であった中西忠太子定に移っていました。
2代目の忠蔵子武が竹刀剣術を取り入れたのは『刃引』による稽古を補うためだったと言われていますが、どちらに重点を置くかで3代目・忠太子啓の代には派内に対立を起こしています。
その後、『竹刀』と『刃引』の比重を半々として両者の持つ役割と意味合いを明確に分け、統合することに成功したのが4代目・忠兵衛子正です。
そして、この忠兵衛子正によって竹刀稽古は剣術の基本として定着し、中西道場は多くの門弟を集めることになりました。
忠兵衛子正は「容貌に威厳があり、剣技敏捷卓抜、腕力があって勇壮。性寛大にして酒を好み、常に大甕を置いて浩然の気を養う」と高弟の白井亨は『兵法未知志留辺』に書いています。
『江戸第一』とされた下谷錬塀小路の中西道場からは、忠太子啓の代に『三羽烏』と呼ばれた寺田宗有、高柳又四郎、白井亨が、忠兵衛子正の代には浅利又七郎、千葉周作など多くの剣豪が羽ばたいていくことになります。
おわりに
中西道場の源流は、あの剣鬼・伊藤一刀斎の「一刀流」です。
おそらく相手を斬る、打倒すことで最強だと思われる一刀斎が起こした「一刀流」が、いつのまにか相手を殺すことのない竹刀剣術に変わっていったことは、なかなか面白い話だと思います。
中西忠兵衛子正のエピソードは全くありませんが、この人の功績は幕末の名だたる剣豪を育てた教育方針にあるのかも。
中西道場出身の剣豪たちは独立しても皆「一刀流」を名乗り、その源流である「中西派一刀流」の剣名を高めていきました。
きっと剣の腕、教育方法だけでなく人格も兼ね備えた立派な剣豪だったのでしょう。
バガボンドでの一刀斎の名言
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