はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【神谷伝心斎】です。【神谷伝心斎】は江戸時代において一大流派となった「直心陰流」の基礎を作った伝説の剣豪です。それでは【神谷伝心斎】について流派や出身地も含め簡単に説明します。
神谷伝心斎
名前:神谷伝心斎直光
流派:直心流
出身:?
年代:江戸時代初期(?~?)
神谷伝心斎と小笠原源信斎長治
神谷伝心斎の出身地、生没年はわかっていませんが、幼い頃の名を丈右衛門といいました。
伝心斎は若い頃から武芸15流にわたって修行を行い、のちに「真新陰流」の小笠原源信斎長治の門弟となっていました。
当時は、宮本武蔵の名が知れ渡っていて、特に「二刀流」の噂で持ちきりだった時代。
伝心斎も武蔵に興味を示し、独学で「二刀流」を研究して相対した場合の対処法を頭の中で繰り返していました。
その中で一つの結論を見つけた伝心斎は「武蔵とて打ち込めないことはない」と豪語します。
すると、これを聞いた師匠の源信斎は「けしからん」とばかりに伝心斎の慢心を諫めました。
しかし、伝心斎はいっこうに自論を曲げなかったため、源信斎は弟子をこらしるべく二刀をもって立合に臨みました。
伝心斎は二刀の隙を狙って打ち込みますが、自分の技でもないのに源信斎は二刀を巧みに操って受け止め、挟み込んで押さえにかかります。
しかし、伝心斎にとってこれは全て織り込み済のことでした。
動きが取れなくなる前に伝心斎は二刀をはねのけ、体制を崩した源信斎の顔面をしたたかに打つのです。
弟子にまんまと返り討ちにされてしまい、二人の間には微妙な空気が流れましたが、そこはさすがに師匠の源信斎。
素直に技を褒めて賞賛の言葉を送り、これに安心した伝心斎はそのあと慢心することなく精進し、源信斎の「真新陰流」を極めました。
その後、伝心斎が67歳となったとき、剣術の本義に気づくことがあって流派名を「直心流」に変えました。
本意とは「従来の勝負とは全て外道乱心の業であり、兵法の根元は仁義礼智の四徳に基づかない限り本物ではない。己を捨て、直心を以って進み、非心邪心を断たなければ自然にゆがむ」というもの。
こののち「直心流」は高橋弾正左衛門重治が継いで「直心正統流」を名乗り、さらに山田光徳が「直心陰流」と名を変え、幕末に大いに栄えて江戸四大道場の一つとなっていくことになります。
おわりに
師匠・源信斎もまさか負けるとは思っていなかったのでは?
勝った伝心斎も「あっ・・・やべ・・・・どうしよ・・・」って素直に大喜びできないし。
そもそも、源信斎は武蔵のように二刀流をうまく使えたのでしょうか?
出来もしないことやろうとして、実は慢心していたのは源信斎の方なのかもしれません。
二人の名前がややこしすぎて申し訳ない。
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