はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【東郷重位】です。【東郷重位】は初太刀必殺、烈帛の剛剣を放つ示現流を生み出した伝説の剣豪です。それでは【東郷重位】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
東郷重位
名前:東郷重位
流派:示現流
出身:薩摩国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1561~1643)
自顕流との出会い
東郷重位は永禄4年(1561)に瀬戸口重為の三男として鹿児島で生まれました。
はじめは瀬戸口弥十郎、藤兵衛を名乗り、のちに瀬戸口姓から遠戚にあたる東郷姓に変わって東郷重位を名乗っています。
当時の薩摩は「タイ捨流」の丸目蔵人の高弟・東権右衛門正直が指南役を務めており、多くの者が「タイ捨流」を学んでいました。
重位も幼少の頃より「タイ捨流」を学んで免許皆伝を受けていましたが、天正16年(1588)、島津義弘に従って上洛した際に「天真正自顕流」を伝える善吉和尚に出会います。
この時、善吉22歳、重位は28歳であったといいます。
重位はホウキを八相に構えて気合を発する善吉の姿に惚れ込み、その場で指南を請うて許されました。
その後6カ月の間、善吉から「自顕流」を学んだ重位は『尊形・聞書・察見』の3巻の伝書と、40の技を伝えられ「自顕流」を託されました。
示現流へ
重位は薩摩帰国後も「自顕流」の技を独自に磨いていました。
3年間、昼夜問わず屋敷にあった柿の木を木刀で打ち込んだため、柿の巨木は立ち枯れてしまったといいます。
やがて、重位の噂は薩摩藩士の知るところとなり、腕に覚えのある剣士から他流試合を申し込まれるようになりました。
重位はそれをことごとく打ち破り、求められれば門弟として迎えて剣を伝えていきます。
そして多くの門弟を抱えた重位の名は、ついに島津家当主・家久の耳に届くようになり、家久の命によって元師匠である「タイ捨流」の師範・東権右衛門と立ち合うこととなるのです。
重位と権右衛門の立合は47回に及びましたが、結局は重位が勝利して島津家の剣術指南役として迎え入れられ、権右衛門はほどなくして国を出ることになりました。
なお、このとき逆上した家久が重位に斬りかかりましたが、丸腰の重位はとっさに腰に差していた扇子で家久の手を打ち据えて刀をかわしたという逸話も伝わっています。
その後、臨済宗の僧・南浦文之によって「示現流」という流派名を命名され、家久に重用された重位の剣は薩摩に急速に広まっていきました。
生涯40余りの立合を経験し、10人余りを上意により討ち取った重位ですが、性格は非常に礼儀正しく、物事を荒立てない人格者であったといわれ、薩摩藩家老から極秘事項に関わる相談事を受けるなど、剣術以外でも頼りにされた人物でした。
おわりに
薩摩の示現流というと「チェスト」の気合とともに初太刀で勝負を決める、「技」というより「力」と「気迫」の剣術のイメージがあります。
そのイメージが「一発目が外れたら死亡」→「一か八か」のような野蛮な剣術に誤解されているのかな。
どうも幕末の「人斬り半次郎」ってイメージが、東郷重位のイメージを上書きしてしまったような気がします。
でも実際に中村半次郎が学んでいたのは薬丸自顕流で厳密にいえば少し流派が違うんですけどねぇ。
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