はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【岡田惣右衛門】です。【岡田惣右衛門】は江戸時代末期に実用的な剣術を教え、千葉周作の玄武館をしのぐ門弟を抱えた伝説の剣豪です。それでは【岡田惣右衛門】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
岡田惣右衛門
名前:岡田惣右衛門寄良
流派:柳剛流
出身:武蔵国
年代:江戸時代末期(1765~1826)
柔よく剛を制す
武蔵国葛飾郡の出身の岡田惣右衛門は、幼くして文武に優れ、神童と呼ばれていました。
18歳で江戸に出て「心形刀流」の伊庭軍兵衛の弟子・大河原有曲に学ぶと、惣右衛門は武者修行で広沢長喜から「三和無敵流」や「山本流」等を学び「柳剛流」を興します。
その後、江戸に神田お玉ヶ池に道場を構えた惣右衛門は、明快な剣理と千葉周作以前に昇段試験を簡略化するなどの合理的な指導で人気を博しました。
神田お玉ケ池付近には千葉周作の玄武館もあって、のちに活躍する幕末の志士たちの多くが学んだ学塾や道場が立ち並んでいました。
その中で惣右衛門の「柳剛流」道場は玄武館以前から創設された総合武術道場であり、万延元年(1860)当時では門人数は玄武館の「北辰一刀流」をしのいでいたといわれます。
「柳剛流」の剣術は、敵のスネを打つところが最大の特徴でした。
この技は戦場においては敵の戦闘能力を奪う当然の戦法で、戦国時代に山本勘助が『兵法秘伝書』で高く評価してもの。
しかし、江戸時代に入って武士道が美を尊び、各流派がもっともらしい理論を立てをするようになると、頭を下げて敵の脚に向かうのは『死太刀』であると言われ、田舎剣法として無視される扱いを受けていました。
そんなスネ打ちの技の実用性に気づき、再興させたのが惣右衛門でした。
幕末の動乱期に向かっていく時代に惣右衛門の考えは見事に合致し、戦闘能力を手っ取り早く高めたい者から評価され、さらに「柳剛流」の名の示すように相手の力を柳のように風と受け流す、千変万化の造化の妙『柔よく剛を制す』の教えがウケて、広く受け入れられていきました。
「柳剛流」は免許を得るとすぐに独立することができたため、多くの者が20代で免許を受けて各地に分派が生まれています。
出典:https://dojos.org/
惣右衛門は高弟の一条信忠に岡田姓を名乗らせて2代目とし、その後信忠は元々仙台藩家臣であったために仙台へ帰って角田で「柳剛流」を教え、宮城県では現在も伝承されています。
また、岡田惣右衛門の弟子・直井勝五郎秀堅は、講武所師範役となった松平上総介忠敏や、紀州藩剣術師範となった橘内蔵介正以を輩出し、さらに正以が安政5年(1858)に将軍・徳川家茂の前で剣技を披露して紀州藩の藩校で「柳剛流」が採用されたことから、現在も紀州藩領であった三重県田丸でも伝承されています。
おわりに
岡田惣右衛門は田舎剣法呼ばわりされていた剣術を復興させた「伝説の剣豪」です。
他の流派が武士道を貴ぶ中、実用的な剣術を教えた「柳剛流」は幕末へ向かう時代の流れの中で多くの門弟を獲得していったのは必然の流れ。
惣右衛門が時代を読んでいたとは思えませんが、時代はこの剣術を求めていた。
実は私(筆者)は元々三重県田丸の出身であり、この岡田惣右衛門を調べるまで、地元に「柳剛流」が伝播していることなんて知りませんでした。
そういえば、この地域は室町時代の愛洲移香斎や、戦国時代の北畠具教など多くの剣豪を輩出していることから、もともと「剣」とは関わりの深い土地柄です。
岡田惣右衛門のおかげで、また一つ郷土の歴史を知ることができました。
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