はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【柳生石舟斎】です。【柳生石舟斎】は柳生新陰流を創始し、柳生家が徳川家の剣術指南役として活躍するきっかけを作った伝説の剣豪です。それでは【柳生石舟斎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
柳生石舟斎
名前:柳生石舟斎宗厳
流派:柳生新陰流
出身:大和国
年代:戦国時代~江戸時代初期(1527~1606)
新陰流との出会い
柳生石舟斎の柳生家は、古くは平姓を名乗った豪族であったようです。
石舟斎は柳生家の頭領として大和柳生庄に生まれ、若い頃から剣豪として名を知られて『五畿内一の兵法者』と」呼ばれていました。
この頃の石舟斎の剣は「新當流」、もしくは「中条流」であったと言われています。
石舟斎は父と共に三好長慶、松永久秀に属して軍功を上げ、のちに織田信長にも仕えていましたが、しばらくして病気を理由に柳生庄に隠棲することになりました。
ある日、「新陰流」の名高い剣豪・上泉伊勢守信綱が宝蔵院を訪れていることを知った石舟斎。
自分の剣がどこまでのものなのか試したくて居ても立ってもおられず、宝蔵院を訪れて信綱に試合を申し込みます。
すると快く了承した信綱は、剣をだらりと構えた姿勢から相手の構えの変化に合わせて自在に剣を操り、隙があるようでない不思議な感覚を石舟斎に抱かせました。
そして何もできない石舟斎が苦し紛れに打ち込もうとした瞬間、信綱の剣は石舟斎の拳を打ち、勝負は終わります。
負けた理由が分からない石舟斎は「もう一手」と勝負を挑むが、三日間に及んだ立ち会いで一度も勝つことができませんでした。
やがて信綱の技量を思い知った石舟斎は完全に心酔してしまい、その場で入門を志願し「新陰流」の教えを請います。
信綱はこの願いを許し、半年もの間、柳生庄に滞在して「新陰流」を石舟斎に教えました。
そして半年後、信綱は石舟斎に無刀にて太刀に応ずる『無刀取り』の術について工夫するようにお題を出し、再会を約束して柳生庄を去るのです。
柳生新陰流の完成
その後、石舟斎は独自に研鑽を積んで『無刀取り』を完成させ、晴れて信綱と再会。
ここで石舟斎は信綱の門弟・鈴木氏の打ち込みに対して、無刀で捕らえて刀を奪い、信綱から新陰流兵法第二世の印可を授かりました。
文禄3年(1594)、徳川家康は石舟斎の評判を聞いて京に招き、兵法を教えるよう求めました。
このとき石舟斎は五男・柳生宗矩と共に参上し、「新陰流」の奥義と『無刀取り』を披露。
信綱の高弟・奥山休賀斎公重の剣を学んでいた家康も自ら木刀を持って『無刀取り』を体験しました。
柳生家伝では『無刀取り』によって家康は為す術もなく太刀を奪われ、後ろに転んでしまったと伝わっています。
そして家康はその場で剣術指南役を要請することになりましたが、石舟斎は老齢を理由にこれを断って、代わりに24歳の宗矩を推挙しました。
こうして「柳生新陰流」が徳川家の『御流儀』として後世まで伝わっていくことになるのです。
おわりに
いつも『お爺さん』というイメージがつきやすい柳生石舟斎ですが、若い頃は宗厳の名で『五畿内一の兵法者』としてやんちゃしまくっていたと思われます。
その高く伸び切った鼻をへし折ったのが剣聖・上泉伊勢守信綱。
どこそのザコ剣士なら恨んで復讐するところを、石舟斎は素直に負けを認めて弟子入りするところが偉いです。
この人がいなかったら「柳生新陰流」はなかったわけですから、石舟斎の才能を感じ取って伸ばしてあげる信綱の活人剣も見事なもの。
まさに剣聖。まさに名人は名人を知る、運命の出会いだったんでしょう。血で血を洗う戦国時代において、この二人の師弟関係は実に微笑ましいと思います。
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