はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【佐々木小次郎】です。【佐々木小次郎】は宮本武蔵の永遠のライバルであり、生涯のほとんどが謎に包まれた伝説の剣豪です。それでは【佐々木小次郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
佐々木小次郎
名前:佐々木小次郎、佐々木巌流
流派:巌流
出身:豊前国、越前国
年代:戦国時代~江戸時代初期(?~?)
謎だらけの出自
佐々木小次郎は出身地、生年とも明らかになっておらず、ライバルとして比較される宮本武蔵以上にその生涯は謎に満ちています。
はじめ小次郎は安芸国・毛利氏に仕え、武者修行のため諸国を遍歴して「富田流」に連なる流派を学んだとされており、富田勢源もしくは鐘捲自斎の弟子であったともいわれています。
もし、勢源の弟子であった場合、小次郎は武蔵と立ち会った頃にはかなりの老齢であり、また自斎の弟子であっても武蔵よりは年上であろうと考えられます。
よって『二天記』にあるように小次郎は18歳の若武者であったというのは到底無理があることになります。
「富田流」は盲目の剣豪・富田勢源が1尺あまりの薪で3尺以上の長太刀を相手にしたように小太刀を得意とした流派でしたが、「富田流」を学んだ鐘捲自斎は小太刀から中太刀の技を編み出しました。
佐々木小次郎のトレードマークと言えば『物干し竿』とも呼ばれた備前長船長光の野太刀が有名であり、もし小次郎が「富田流」を学んでいるとすれば、小太刀、中太刀の中から長太刀の技を編み出して「巌流」を創始したことになります。
唯一の出番が巌流島
慶長17年(1612)、小次郎は小倉の船島にて宮本武蔵と決闘を行いました。
決闘までに至る経緯は、細川藩内の勢力争いであるとか、互いの門弟同志の争いが発端であるとか諸説様々です。
しかし、細川藩ではこののちにも剣術指南役である松山主水が暗殺される事件が発生するなど、藩内において争いが多いところでした。
この決闘で小次郎は絶命したとされていますが、小倉藩家老・沼田家に伝わる『沼田家記』では、小次郎はしばらくして息を吹き返したものの、武蔵の弟子たちによって殺されたとされています。
その後、小次郎の弟子たちが武蔵を恨んで襲撃を計画したようですが、沼田延元の助けによって武蔵は落ち延びることができたといいます。
小次郎の死後も細川藩内には「巌流」の門弟たちが多く残っていたと思われますが、のちに武蔵が細川藩に迎えられた時には、すでに「巌流」の道統は尽きていたと考えられています。
おわりに
佐々木小次郎は漫画、ゲームなどでは常に長髪の美男子で描かれ、魅力的な人物として人気を博していますが、実際はホントに謎すぎてよく分からない。
その謎すぎるところが、ミステリアスで魅力的なのかもしれませんが。
でも冷静に考えると、この人はだだの宮本武蔵のかませ犬。
普通は負けた側の人間は名前すら忘れ去られてしまうというのが世の常ですが、佐々木小次郎は偉大過ぎるライバルのおかげでバッチリ名前が残っています。
しかもイケメンキャラで。
そもそもライバルであれたかどうかも分からない小次郎ですが、今となっては武蔵に感謝するしかないでしょう。
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