はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【根岸兎角】です。【根岸兎角】はこれまで紹介してきた剣豪たちとは違って決して強いイメージはなく、さらにとんでもない恩知らずという伝説のクソ剣豪です。それでは【根岸兎角】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
根岸兎角
名前:根岸兎角
流派:微塵流
出身:下総国?
年代:戦国時代~江戸時代初期(生没年不詳)
師岡一羽を見捨てた恩知らず
根岸兎角は師岡一羽に剣を学び「一羽流」を修めた人物でした。
師の師岡一羽は下総国江戸崎で道場を開き、その高弟として根岸兎角、岩間小熊之助、土子土呂助の3人が一羽道場の『三羽烏』として一流の武芸者になっていました。
しかし、師岡一羽が病に倒れて床に臥せるようになると、この兎角は師を見捨てて出奔してしまいます。
このため師岡一羽の看病を続けていた岩間小熊之助、土子土呂助は、兎角への恨みを次第に募らせていきました。
そんなことは露知らず、兎角は小田原に行くと自らを『天下無双の名人』と宣伝し、「微塵流」を名乗って多くの門弟を抱える道場主となります。
さらに、のちに江戸に出ても道場を開いて門弟数百人を抱えました。
兎角は目つきが鋭く、高身長で『天狗の化身』と噂され評判になっていたといいます。
一方、小熊之助、土呂助は武具や着物まで売り払って金に換え、必死に看病を続けましたが、あえなく師岡一羽が病死。
師を見捨てた上に流派を勝手に「微塵流」と称して評判を得ていた兎角の噂を聞いた二人は、師の亡骸を前に復讐を誓って江戸に向かうことを決意しました。
しかし、さすがに二人で兎角を討つことは卑怯であるからと考え、くじ引きによって討手を決めることにします。
そしてくじ引きの結果、小熊之助が江戸に行くことになり、土呂助の方は郷土に留まって鹿島明神に兎角討伐を祈願することになりました。
岩間小熊之助との決闘から逃亡
江戸に出た小熊之助は、まずは江戸城大手大橋に高札を立て他流試合を所望します。
掲げた高札には『日本無双』の言葉が書かれており、あからさまな「微塵流」への挑発行為でした。
小熊之助の行動は「微塵流」の門弟たちを怒らせ、兎角もいきり立つ門弟たちを抑えきることができず、ついに二人は奉行所立ち合いのもとで試合をすることになります。
試合当日、兎角は小袖と袴をはき、白布のたすきに黒襦袢、六角の太長い木刀に鉄鋲を仕込んだ得物を持ってド派手に登場。
一方、小熊之助は木綿の袷に袴、普通の木刀という地味な姿。
見物に来た者たちの多くは、兎角の格好と得物を見て小熊之助の敗北を予想していました。
しかし、試合が始まってみると二人の打ち合いは全くの互角。
復讐に燃える小熊之助が次第に押し始め、ついに兎角を橋の欄干に追い詰めます。
そして小熊之助は兎角の片足を掴んで濠の中に放り込むと、兎角はそのまま逃走してしまいました。
その後、この決闘で名を上げた小熊之助は兎角が去った江戸で道場を開き、多くの門弟を迎え入れます。
しかし「微塵流」の門弟たちは小熊之助を深く恨み、殺害を計画していました。
そして小熊之助は門弟を装った者に浴室に招かれ、熱湯で意識朦朧となったところを襲撃されて殺されてしまいました。
一方、江戸を逃げ出した兎角は四国、中国で「微塵流」を指南し、名を『信太朝勝(しのだあさかつ)』を改めて黒田藩の指南役に就いたといいます。
おわりに
師匠を見捨てる、負けそうに逃亡、何とも冴えない印象の根岸兎角。
こんな男が「伝説の剣豪」を名乗るなんておかしくないか?と思いますが、勝った岩間小熊之助より負けた根岸兎角の方が有名なことは事実。
逃げたのちに黒田長政に仕えるまでになったのですから、相当の苦労もしたんでしょう。
剣豪としての兎角の本当の姿は語られることのない後半生にあったのかもしれません。
やはり命あってこその戦国時代。どんなに卑怯でも、生き残ってさえいれば汚名挽回の機会もあるというものですね。
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