はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【浅利義信】です。【浅利義信】は中西道場の『三羽烏』と呼ばれた寺田宗有、高柳又四郎、白井亨の先輩にあたる伝説の剣豪で、一時期は千葉周作を婿養子として迎えていた人物です。それでは【浅利義信】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
浅利義信
名前:浅利義信
流派:中西派一刀流
出身:下総国
年代:江戸時代後期(1778~1853)
浅利又七郎義信
浅利義信は安永7年(1778)に下総国松戸宿の農家に生まれました。
少年時代は又七といい、家が貧しかったために毎日のように江戸へ出て、浅蜊(アサリ)を売って生計を立てていました。
又七はその帰り道に楽しみにしていたことがあり、それが下谷練堀町の中西道場の稽古をこっそり見ることでした。
やがて、そんな少年の姿に気がついたのが中西道場第3代・中西忠太子啓。
中西忠太子啓に内弟子として直接指導すると、又七はみるみるうちに腕を上げ、得意の突きでまたたく間に先輩剣士たちを追い越して中西道場最強の男にのしあがりました。
中西道場最強の男として有名になった又七は、こののちに小浜藩主・洒井忠順から同藩江戸詰師範として出仕することになり、「初心忘れるべからず」と誓って『浅蜊』の虫偏を外して『浅利又七郎義信』を名乗ったといいます。
しかし、これらの話は講談師の虚構であるともいわれ、実際は松戸の米問屋『糖屋』で働いていた又七が主人の道楽で始めた剣術の相手をしながら腕を上げ、やがて江戸へ出て中西道場に入門したともいわれています。
どちらにせよ、義信が中西道場で腕を磨いていた時期には同門に寺田宗有、高柳又四郎、白井亨、千葉周作という名だたる剣豪たちが在籍し、共に切磋琢磨しながら中西道場の黄金期を支えていました。
やがて浅利道場を開いた義信は、中西道場以来の愛弟子・千葉周作に姪・かつを娶らせ、小浜藩の剣術指南役も与えて『又七郎』を襲名させました。
しかし、義信と千葉周作はその後に組太刀の改変を巡って意見が対立し、千葉周作夫妻が道場を去って独立し「北辰一刀流」を興すことになります。
そして義信は浅利道場を守るため、新たに中西家から義明を養子に迎え、『又七郎』を襲名させ道場を継承させました。
これより浅利家は中西道場の別格家とされ、中西本家に跡継ぎが無くなった場合に流派を継ぐものとされ、義信は嘉永6年(1853)に76歳で死去しました。
剣豪名をクリックすると個別の剣豪紹介記事が見れます↓