はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【北畠具教】です。【北畠具教】は公家大名の立場にありながら剣術を好み、剣聖として有名な塚原卜伝から秘伝『一の太刀』を伝授されたという伝説の剣豪です。それでは【北畠具教】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
北畠具教
名前:北畠具教
流派:鹿島新當流
出身:伊勢国
年代:戦国時代(1528~1576)
名門・北畠氏の最盛期
北畠具教は享禄元年(1528)、北畠家の第7代当主・北畠晴具の長男として生まれました。
北畠家はもともと公家で朝廷より伊勢国司に任じられ、没落する公家が多い戦国時代において珍しく大名として生き残った名門でした。
具教はお家柄、若い頃より朝廷から官位を授かり、天文22年(1553)に父の隠居により家督を相続。
南伊勢地域を拠点にしていた北畠氏は小競り合いを繰り返していた北伊勢方面に弘治元年(1555)頃から本格進出し始め、伊勢国安濃郡の長野工藤氏には戦いの末に和睦条件として具教の次男・具藤を養嗣子として送り込みました。
すると、永禄5年(1562)に長野稙藤と長野藤定が同日に死去し、北畠氏は長野家の乗っ取りに成功しました。
おそらく具教による長野一族暗殺があったものと考えられられています。
他にも具教は小浜景隆ら志摩国の国人達を利用して九鬼氏の本拠地・田城を陥落させ、志摩国での支配体制も固め、さらには大和国宇陀郡にも支配領域を広げて北畠氏の最盛期を築き上げました。
永禄6年(1563)に父・晴具が死去すると具教は嫡男の具房に家督を譲りましたが、実際の実権は具教が握っていたと思われます。
一の太刀
永禄年間に迎えた北畠氏の最盛期に具教は剣術を好み、修行の旅をする武芸者を保護・援助していました。
もともと、伊勢国は「陰流」を創始した愛洲移香斎を輩出した剣豪にはゆかりある場所であり、船による関東との交流も盛んな地域です。
これから名を上げようとする武芸者にとっても、他の武芸者と手合わせたり、指導を仰いだり、情報交換できる北畠館は恰好の修行場であったと思われます。
また、具教自身も手を合わせることすら難しいとさえいわれていた塚原卜伝から剣や兵法を学び、「鹿島新當流」の奥義である『一の太刀』を伝授されたといわれています。
ちなみに『一の太刀』は足利義輝や細川藤孝にも授けられたといわれますが、新當流の伝承では、塚原卜伝が『唯授一人の一之太刀』を伝授したのは北畠具教一人だけとしています。
具教は他にも上泉信綱を招いて剣を学んでおり、剣を通じて親交があった大和の宝蔵院胤栄、柳生宗厳らに上泉信綱を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたといわれます。
織田信長の侵攻
領土の拡大と共に剣術を学んで人生を謳歌していた具教ですが、永禄11年(1568)以降は尾張の織田信長の侵攻を許し、北伊勢のほとんど奪われました。
そして永禄12年(1569)に信長本人が出陣すると、具教の弟・木造具政が織田側に寝返って戦況はますます悪化。
具教は籠城して奮闘したものの、実質上は降伏する形で和睦を結ばされ、条件として信長の次男・茶筅丸(のちの信雄)を現北畠当主・具房の養嗣子として迎え入れることになりました。
その後、具教は出家して三瀬谷の三瀬御所に移り、天正3年(1575)頃までは織田家とは友好関係にありました。
しかし、具教が隠居城として伊賀国丸山城の築城を決めて工事を進めると、織田家との関係は悪化。
具教と側近達は、元亀4年(1572)に信玄の陣へ鳥屋尾満栄を派遣し、上洛の際には協力するという密約を結びました。
また、具教は信長に敵対する紀伊熊野勢にも蜂起を勧めていたといわれます。
壮絶な最期
具教の信長包囲網への協力行為は、やがて信長の知るところとなります。
天正4年(1576)の正月の挨拶では、信長は具教の使者・鳥屋尾満栄を待たせたまま対応せず、満栄が帰ろうとすると呼び戻し、進物を庭の白洲に置かせて満栄を座らせたまま、縁側で刀を抜くなど挑発的な行動を見せたといいます。
そしてこの年の11月、信長・信雄親子は北畠一族の抹殺を画策し、長野左京亮ら具教の家臣に領地安堵の朱印を与えて具教殺害を指示しました。
その後、密かに滝川雄利らの軍勢が三瀬御所を包囲すると、信長に内通していた具教の近習・佐々木四郎左衛門が長野左京亮らを迎え入れます。
そして長野左京亮は佐々木四郎左衛門に導かれてお目通りすると、いきなり槍で具教を突きました。
これを間一髪で躱した具教はすぐに太刀で反撃しようとしましたが、具教の太刀は佐々木四郎左衛門によって抜くことが出来ないよう細工されており、そのまま討ち果たされたといいます。
また、一説には具教が19人を斬り殺した上、100人以上に手傷を負わせ、その後、石垣に飛び上がって自らが怪我をしてないことを確認し、矢倉の上で自害したともいわれています。享年49。
その後、三瀬御所に討ち入った滝川雄利の軍勢によって具教の四男・徳松丸、五男・亀松丸らが殺害され、これと同時に弟の長野具藤、はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害されて北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られました。
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