はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【橘内蔵介】です。【橘内蔵介】は超マイナーな剣豪ですが、私の出身地の隠れた剣豪であったために強引に伝説の剣豪にぶち込んだだけの男。ただのエコ贔屓の剣豪です。それでは【橘内蔵介】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。温かい目でご覧ください。
橘内蔵介
名前:橘内蔵介、橘正以
流派:柳剛流
出身:伊勢国
年代:江戸時代末期~明治時代(1820~1880)
柳剛流との出会い
橘内蔵介は文政3年(1820)、伊勢国度会郡で世古治良左右衛門の次男として生まれました。初名は俊平。名は正以。
14歳になった内蔵助は紀州藩の飛び地であった伊勢国度会郡田丸領の同心・橘為右衛門の養子となりましたが、すぐに養父母が死去してしまいます。
こののち、田丸に残った内蔵介は同地で「柳剛流」を教えていた直井勝五郎秀堅から武術を学びましたが、この師匠もやがて死去してしまいました。
その後、しばらくすると田丸には備前の剣術家・林録之助がやってきました。
すると、師匠を失い教えを請うことができなくなっていた内蔵介は、自宅に林録之助を泊めて剣術を学んでいきました。
兄弟子・松平忠敏
天保15年(1844年)、剣術家として一人前になった内蔵介は、同じ直井秀堅から学んでいた兄弟子の松平帯刀に江戸に招かれ、道場の助教授として門弟たちを指導しました。
ちなみに、この松平帯刀は長沢松平家当主・松平忠敏となった人物であり、幼い頃より「柳剛流」を学び、「心形刀流」の伊庭秀業にも師事していたといいます。
また、のちに黒船が到来すると、脅威を感じた幕府が国防策の一つとして武士の訓練機関として『講武所』を設立し、松平忠敏は剣術教授方に任命され、近藤勇の『新選組』に繋がる清河八郎の『浪士組』の結成を企画した責任者にもなっています。
松平忠敏は講武所のような個人戦闘の武術訓練所よりも、砲術訓練など集団戦闘の訓練所が必要であると考えていた当時でも先進的な人物でもありました。
紀州藩の剣術指南役へ
江戸で道場運営の傍ら、自分を磨いていった内蔵助はその後、田丸に帰り自らの道場を開いて武術だけでなく学問も教えました。
内蔵介の指導はかなり厳しかったようですが、武士だけでなく農民も多く入門し、門人は数千人にもなったといいます。
その後、田丸代官から紀州藩勘定吟味役になっていた門人・小浦惣内が将軍に上覧する剣術家として内蔵介を推薦。
これを紀州藩は認め、安政5年(1858)に内蔵介は門弟9名と共に江戸に上がり、14代将軍・徳川家茂の前で剣技を披露しました。
また、このとき内蔵介は門人と共に家老である水野家の江戸屋敷で、紀州藩の剣術師範家4流「田宮流」「西脇流」「金田流」「浅山一伝流」の門人と試合を行い、「柳剛流」の実力が認められました。
これがきっかけで「柳剛流」は紀州藩の藩校で採用されることとなり、内蔵介の名は世に知られるようになりました。
その後、内蔵介は幕末の動乱を乗り切り、明治13年(1880)に地元の広泰寺で門人119名から還暦を祝ってもらいましたが、同年に惜しまれつつ死去しました。享年61。
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