はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【加藤田平八郎】です。【加藤田平八郎】は、あの幕末の剣聖である「直心影流」の男谷精一郎、島田虎之助コンビから全勝するという恐るべき成績を残した伝説の剣豪です。それでは【加藤田平八郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
加藤田平八郎
名前:加藤田平八郎
流派:加藤田神陰流
出身:筑後国
年代:江戸時代末期~明治時代(1808~1875)
約千本試合
加藤田平八郎は文化5年(1808)、久留米藩士で藩の剣術師範家として「神陰流」を伝える加藤田家の分家である加藤家の長男として生まれました。
平八郎は11歳から加藤田新八に入門して「神陰流」を学び、16歳で加藤田新八の娘を娶って加藤田家の婿養子となります。
そして文政12年(1829)、「新陰流」を極めた平八郎は修行の旅に出発し、九州~近畿の20か国を7か月でまわって各地で試合を行ないました。
この旅の間に平八郎が試合をした人数は997人にものぼったといいます。
天保8年(1837)、養父・加藤田新八が隠居すると、平八郎は加藤田家の家督を継承。
翌年には江戸にいた「窪田派田宮流」の窪田清音のもとで修行するため、再び修行の旅に出ました。
江戸での平八郎は4尺(約1.2m)の長竹刀を使って「直心影流」の男谷信友と十本勝負を行って全勝し、同じく「直心影流」の島田虎之助にも八本勝負で全勝しました。
しかし、平八郎は定寸の3尺3寸(約1m)の竹刀を使った「北辰一刀流」の千葉周作には敗れたといわれます。
武術だけでなく文筆にも優れた才能を発揮した平八郎は、初心者への剣術指導法を記した『初学須知』を著してこ、自らの他流試合や剣術指導時の経験を分析して記しています。
明治8年(1875)に68歳で亡くなった平八郎が教えた門人は3,500人を超え、奥免許を授けた12名の中から松崎浪四郎、梅崎弥一郎らが世に知られていきました。
おわりに
997人って・・・・あと三人ぐらいやっとけよ!とツッコミたくなる試合数。
勝敗はどんな成績だったのかは分かりませんが、のちに男谷精十郎や島田虎之助に圧勝しているところをみると、とんでもない腕前だったことは確実ですね。
弟子の松崎浪四郎も江戸で大暴れしてますし、大石進以降、基本的に九州の剣豪たちは江戸で道場破りするのがお決まりのパターンなのかな。
「道場破り?どこ出身?・・・・え・・・・九州?・・・・またかよ・・・・」
めっぽう強い九州の剣豪たちがくるたび、江戸の道場主は憂鬱になっていたかもしれない。
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