はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【宇野金太郎】です。【宇野金太郎】は飛んでいる蝿を箸でつまむ逸話を残し、誰もがその剣を恐れたという伝説の剣豪です。それでは【宇野金太郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
宇野金太郎
名前:宇野金太郎、宇野重義
流派:片山流、北辰一刀流
出身:周防国
年代:時代(1828~1862)
岩国に宇野あり
宇野金太郎は文政11年(1828)に長州藩の支藩とされる岩国領の吉川家臣・山形旦蔵の子として生まれました。
幼くして宇野正九郎の養子となった金太郎は、はじめ長谷川藤次郎に剣術を習い、15歳の頃に片山久豊の「片山流」に入門。
金太郎は背丈はあまり高くなく、色白の美男子だったといいますが、弘化3年(1846)には剣術師範となるほど腕を上げていました。
嘉永元年(1848)、金太郎は岩国に来訪した「直心影流」の剣豪・島田虎之助に見込まれて江戸に上がります。
そして金太郎は江戸で島田虎之助の道場で修行したのち、千葉周作の『玄武館』でも腕を磨きました。
その後、安政4年(1857)から金太郎は武者修行の旅に出て「岩国に錦帯橋と宇野あり」といわれるほど剣名を高めていきました。
金太郎は飛んでいる蝿を箸でつまんだり、直径1㎝の椋ノ木の実を刀で突き当てる妙技を見せたといいます。
桂小五郎を撃破
その後、岩国に道場を開いた金太郎の剣名はうなぎ上りでしたが、あまりにエゲツナイ剣を振るうので修行者は金太郎の道場を避けて通るといわれていました。
そんな折、金太郎は長州藩士・桂小五郎の挑戦を受けます。
桂小五郎は江戸の練兵館で塾頭まで務めた腕前で、藩命により長州へ帰国することになったため、帰路に腕試しとして立ち寄ったのです。
金太郎は最初の一本を軽く籠手を取られてしまいましたが、続く二本目では強烈な籠手を打ち込みます。
この一撃で桂小五郎は腕がしびれて竹刀が持てなくなって試合は続行不可能になりました。
形式上、この試合は引き分けとされましたが、桂小五郎は味わったことのない剛剣をくらい、悔しい思いして長州に帰ったといいます。
完全敗北
こののち、金太郎は再び九州を訪れて肥前大村藩では剣術師範役を務めていた斎藤歓之助に勝利しました。
斎藤歓之助は練兵館創設者の斎藤弥九郎の三男で『鬼歓』と恐れられた人物であり、実質金太郎は練兵館を2度も打ち負かしたことになります。
しかし、負けた斎藤歓之助もこのまま引き下がっては練兵館の名が廃ると考え、すぐに江戸に手紙を送りました。
そして、ついに金太郎のもとに練兵館の最強の刺客がやってきます。
その男こそ『幕末最強』とされた仏生寺弥助。
そうとも知らず、九州での修行の旅を終えた金太郎は岩国で斎藤歓之助と仏生寺弥助の訪問を受けました。
「この前はお見苦しい試合をしてしまい申し訳なかった」と丁寧に詫びた斎藤歓之助。
これに対して金太郎は「良い心掛けである。何度でも試合に応じても良いぞ」と小バカにしたように答えます。
すると斎藤歓之助は仏生寺弥助を練兵館の代表として紹介し、試合を申し込んできました。
自信たっぷりの金太郎は「やれやれ」と言わんばかりに了承し、すぐに十本勝負で試合が始まります。
すると、いきなり仏生寺弥助は大胆にも左上段に構えたため、金太郎は驚きました。
上段の構えは『守り』を捨てた『攻め』重視の構えであるため、普通は自分よりも熟練している者にとるべき構えではありません。
怒りを覚えた金太郎は、一気に間合いを詰めて打ち込もうとしましたが、その瞬間に強烈な衝撃が頭に走りました。
金太郎には仏生寺弥助の「面」が全く見えず、何をされたのかも分かりません。
動転しながらも金太郎は構えを変えて試合を続けますが、その後も仏生寺弥助の容赦ない剣は金太郎の面を3本打ちました。
「面」と分かっていても防ぐことができない金太郎はすっかり戦意喪失し、続く4本目を辞退するしかありませんでした。
この直後、金太郎が圧倒的な力の差に打ちひしがれていると、斎藤歓之助が試合を申し込んできました。
さすがの金太郎もこれを断ろうとしましたが、斎藤歓之助に無理矢理に試合させられ、立ち直ることができなかった金太郎はこっぴどく打ち込まれました。
こののち、金太郎は備後浅野家や遠州掛川藩からも剣術指南に招れたりしましたが、仏生寺弥助ショックからか剣の冴えを見せることができず、二刀を使う奥村左近太にも敗北し、文久2年(1862)に突然病んで39歳の生涯を閉じました。
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