はじめに
ここではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【牟田高惇】です。【牟田高惇】は「鉄人流」の遣い手として全国を廻り、各国の剣士を酷評していた伝説の剣豪です。それでは【牟田高惇】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
牟田高惇
名前:牟田高惇、牟田文之助
流派:鉄人流
出身:肥前
年代:江戸時代末期~明治時代(1831~1890)
鉄人・牟田高惇
牟田高惇は文政13年(1831) に佐賀藩の剣術師範役・吉村市郎右衛門惟章の次男として生まれました。幼名は文之助。
父の教えた「鉄人流」は、宮本武蔵に師事した青木家直(休心)が開いた二刀流を伝える剣術です。
牟田家の養子となった高惇はこの「鉄人流」を学び、嘉永5年(1852)に実父から『二刀流秘伝の巻』を伝授され、二刀剣術の全てを相伝されました。
また、この頃の佐賀藩では藩士の教育のため、選抜された藩士を藩外で修業させることが行われていました。
このため、藩命によって嘉永6年(1853)から廻国修行に出た高惇。
すると江戸に上がった時に黒船の来航があり、高惇はそのまま佐賀藩江戸屋敷の警護を命じられてしまい、しばらく江戸に滞在することになりました。
この江戸滞在期間中、高惇は『練兵館』で斎藤新太郎、歓之助兄弟や塾頭の桂小五郎、『士学館』では桃井春蔵の高弟・上田馬之助、『男谷道場』では道場主の男谷精一郎や門人らと試合を行いつつ、交友を深めました。
特に『練兵館』の斎藤新太郎とは仲良くなったようで、その後も他藩への紹介状を書いてもらうなど友情が続いています。
やがて警護任務を解かれると高惇は廻国修行を再開し、村上藩士・宮川唯右衛門から「両剣時中流」の免許を受けて二刀剣術に磨きをかけました。
嘉永7年(1854)に再び江戸を訪れた高惇は「玄武館」の千葉栄次郎に何度も試合を申し込みましたが、その度に理由をつけて断られ、結局試合ができませんでした。
高惇は日記で他流の剣術をとにかく酷評していますが、この時のことは特に「腰抜けの極み」と千葉栄次郎を罵倒しています。
その後、肥前の大村藩に滞在した時に斎藤歓之助と再会し、一緒に稽古を行っていましたが、幕末期になると高惇は単純な剣士ではなく、第一次長州征討、会津戦争などに従軍して兵士として活躍しました。
維新後の明治7年(1874)、江藤新平の起こした佐賀の乱で高惇は反乱軍に加わったため、士族身分剥奪、懲役3年の判決を受けて服役させられます。
しかし、明治9年(1876)に病気のため釈放されると、明治22年(1889)に大日本帝国憲法発布に伴う大赦を受けて罪が消滅し、翌年に61歳で死去しました。
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