はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は剣術の一大流派を起こした【愛洲移香斎】です。【愛洲移香斎】は剣聖として名高い上泉伊勢守信綱の「新陰流」、つまりは柳生一族の「柳生新陰流」の源流である「陰流」の創始者です。それでは【愛洲移香斎】について流派や出身地も含め簡単に説明しています。
出典:http://www.hyakugo.co.jp/
愛洲移香斎
名前:愛洲移香斎、愛洲久忠
流派:陰流
出身:伊勢国
年代:室町時代中期(1452~1538)
明が怖れた海賊・愛洲氏
愛洲移香斎は、伊勢国愛洲氏の一族。
愛洲氏はもともと船戦が得意な熊野水軍に属した一党であり、平時は海外に出て交易を行い、日本に多くの文化を伝える役割を果たす八幡船を生業にしていました。
しかし、実際は貿易を行いながらも、海賊のようなことを生業に行っていたといわれています。
愛洲氏が属する熊野水軍は東シナ海沿海州を荒らし回り、倭寇「八幡海賊」ともいわれていました。
倭寇が用いる剣法は両手で三尺もの刀を振り回す荒技で、刀と盾をもって戦うことが標準の明国水兵は怖れていたといいます。
このため、中国の『武備志』にも陰流剣術の中にある型を倭刀を持って演武する中国人の絵が描かれています。
このように武術、兵法に優れた者が必要とされた海賊として、愛洲移香斎の剣は磨かれていきました。
また、念流を伝えた念阿弥慈恩の高弟である『念流十四哲』の中に猿御前という人物がいますが、愛洲移香斎はこの猿御前の子孫といわれることからも、愛洲氏は古来より兵法に通じた一族だったとも考えられます。
新陰流の元となった陰流の創始者
愛洲一族に伝わる海賊剣術を学んでいたであろう愛洲移香斎は、若い頃から九剣術修行で全国を廻り、さらに生業を活かして明国にも武者修行で訪れて腕を磨いたといわれています。
実際に愛洲移香斎が明国に行ったといわれるのは31歳から33歳の頃で、文明15年(1483)12月に堺を出港し、日向で年を越して寧波に寄り、明の成化20年(1485)11月に明に到着、文明18年(1485)7月4日には帰国したといいます。
その後、愛洲移香斎は長享元年(1487)36歳の時、日向国の鵜戸権現の岩戸に籠ること37日、満願の日に神が猿の形で奥義と秘伝書一巻を授けたとされていいます。
また、一説では21日目の夜に目の前の蜘蛛を追い払おうとし、ヒラヒラと身を躱す動きを見てひらめいた瞬間、蜘蛛が翁に姿を変え、愛洲移香斎に奥義を授けたとされています。
更に、この翁は「ここから南方に住む『住吉』という者と闘い、その秘術を授けよ」と託宣して姿を消し、愛洲移香斎は言われたとおり『住吉』と仕合して打ち負かして「陰流」を起こしたといいます。
こののち、愛洲移香斎は諸国を巡って兵法を広め、晩年になると鵜戸権現に戻って神職となって87歳で没したとされています。
新陰流を創始した上泉伊勢守信綱は、伝書の中で「予は諸流の奥義を究め、陰流において別に奇妙を抽出して、新陰流を号す。」と書いており、上泉伊勢守信綱が年老いた愛洲移香斎から「陰流」を学んだとの説もありますが、年代的に無理があるので子の小七郎宗通に学んだと考えるのが妥当とされています。
子の小七郎宗通は佐竹家に仕えて「猿飛陰流」を称し、のちに愛洲姓から平澤姓に変えて元香斎と名乗って「猿飛陰流」は秋田藩佐竹氏のもとで平澤氏によって広まっていきました。
おわりに
愛洲移香斎が本当に明まで行っていたとしたら実に興味深い話です。
愛洲氏は半分海賊みたいなものですから本当であってもおかしくはないと思いますが、いかんせん岩戸に籠って神だか猿だかに奥義を授かったという話がうさん臭いために全てが台無しになっているような気もします。
実は愛洲移香斎、筆者の地元の人で本当に応援したい剣豪でありますので、剣豪好きな方は是非一度、愛洲の館へお越しください。
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