はじめに
この記事ではシリーズで伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【逸見長英】です。【逸見長英】は秩父の名流を世に轟かせた甲斐武田氏の一族の末裔、するどい突き技で道場の名誉を守った伝説の剣豪です。それでは【逸見長英】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
逸見長英
名前:逸見太四郎長英、逸見小源太
流派:甲源一刀流
出身:武蔵国
年代:江戸時代後期~明治(1818~1881)
甲源一刀流
逸見氏の家伝である兵法「甲源一刀流」の名は甲斐源氏に由来しています。
逸見氏は甲斐国の守護大名・武田氏とは同族であり、代々甲斐国に住んでいましたが、逸見家16代の逸見義綱が信玄の父である武田信虎と合わず、武蔵国に移り住んだといわれています。
江戸時代、逸見氏は農業の傍ら家伝の兵法を伝え、25代の逸見太四郎義年が桜井五助長政から「溝口派一刀流」を学んで、家伝の兵法と統合して「甲源一刀流」を興しました。
「甲源一刀流」の極意は『草の露が結ぶとき、落ちるときの、人の目に留まらないその一瞬を見極めること』とされ、長剣、小太刀あわせて25の形がありました。
刃を水平に寝かせて相手の肋骨の間を貫く『突き技』を持つ実戦的な剣法でしたが、同時に『剣術は心術なり』という教育的側面も持っていました。
義年は道場『燿武館』を建てて門人を迎えましたが、門人の大部分が農民のために早朝からの朝稽古が中心となり、門人らは朝稽古を終えてから自宅に戻って農作業をしていたといいます。
しかし、「甲源一刀流」の剣名は義年の弟子・比留間与八によって広められていきます。
比留間与八は達人として知られ、比留間家の道場は門弟数千人を迎えて「甲源一刀流」の隆盛に大いに貢献しました。
比留間家は12代将軍・徳川家慶の前で剣技を披露して「甲源一刀流」の名を高めたともいわれます。
逸見長英
比留間家によって「甲源一刀流」が徐々に有名になっていく中、宗家の逸見家には3世・逸見義豊の長男として逸見小源太が生まれます。
曾祖父であった義年は誕生を喜び、自ら孫に名を付けたといいます。
その後、小源太は父が早世してしまったため、4世である叔父・義隆に鍛えられて5世を襲名しました。
身長6尺1寸という堂々たる体格、天賦の剣才を持っていた小源太は流祖・義年の再来と称され、のちに太四郎長英を名乗りました。
長英は1836年(天保7年)に「神道無念流」の大川平兵衛と流儀の存亡をかけた他流試合を行っています。
平兵衛は川越藩の剣術師範を務め、自ら道場を経営していましたが、この地方で隆盛を誇っていた「甲源一刀流」を叩き潰そうと計画していました。
そして意気揚々と『燿武館』に乗り込んだ平兵衛は4世・義隆との試合を所望しましたが、受けてたったのは義隆ではなく、若干19歳の長英でした。
試合開始前、長英は「当流には胴打ちがあるので、胴を付けてください」と言うと、平兵衛からは「無用!」と吐き捨てられます。
そして両者にらみ合いののち、長英が鋭い突きを繰り出すと見事に胴に決まり、平兵衛は血を吐いて倒れました。
こうして『燿武館』の名誉は守られ、若武者の長英の名と共に「甲源一刀流」はますます有名になっていったのです。
おわりに
秩父の山奥に伝えられた「甲源一刀流」は、おそらく幕末においても田舎剣法と揶揄されたことでしょう。
しかし、「神道無念流」との試合で19歳の若武者が見せた田舎剣法の意地は世に「甲源一刀流」の名を轟かせ、現在にも残る流派となっています。
江戸の大きな道場で稽古すれば強くなるわけでもなく、ましてや武士だけが剣術に秀でているわけではない。
まさに「剣術は心術なり!」ってとこでしょうか。
なめきっていた大川平兵衛、さぞかし大ザコキャラなのかと思いきや、地元では渋沢栄一などを指導していた名道場主。
でも、こんな汚点が歴史に残ってしまうなんてお気の毒としかいいようがない。今も昔も調子に乗っちゃいけないね。
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