はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【富田勢源】です。【富田勢源】は目が不自由でありながらも、小太刀を得意とした「中条流」を極めた伝説の剣豪です。それでは【富田勢源】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
富田勢源
名前:富田勢源
流派:富田流、中条流
出身:越前国
年代:戦国時代(1523~?)
盲目の剣豪
富田勢源は朝倉氏の家臣・富田長家の子として生まれました。
父・長家は大橋勘解由左衛門から「中条流」を学んで家伝とし、流派を「富田流」と称していました。
勢源は弟の富田景政と共に父から「富田流」を学んでいましたが、勢源は目を患わってしまい、やがて失明同然の身となってしまいます。
このため富田家の家督は景政に譲られ、勢源は出家することとなりました。
心眼
永禄3年(1560)、勢源が美濃を訪れた時、美濃国主・斎藤義龍に剣術を教えていた「鹿島神道流」の使い手・梅津某という者が、名を上げるチャンスとばかりに試合を申し込んできました。
元来、「富田流」は他流試合を禁じていたため、勢源は丁重に断りますが、梅津は「自分の力量をよく知っているな。わしなら相手が国主であっても試合となれば容赦しない」と大口を叩きます。
これに腹を立てたのが、勢源ではなく梅津の主君である斎藤義龍。
自分のことを引き合いに出して調子に乗る梅津を何とか叩きのめしたいと、斎藤義龍は勢源に試合することを承諾させました。
3尺あまりの長い木刀を手にした巨漢の梅津と、1尺3寸ほどの薪を持った眼病持ちの勢源。
誰の目から見ても梅津の勝ちではないかと思われましたが、試合が始まるやいなや「いざっ」と勢源が素早く身を寄せて打ち据え、一瞬のうちに梅津は半身血まみれに。
苦し紛れに梅津は太刀を抜いて斬りかかろうとしましたが、勢源はそれを軽くかわしてとどめの一撃を加えます。
あまりにも鮮やかすぎる技に斎藤義龍は感動し、勢源を呼び出して褒美を与えようとしましたが、勢源はアッサリと断って越前に帰ってしまったといいます。
おわりに
これぞ心眼!しかも武器は「薪」というただの鈍器です。
たった一つのエピソードでここまで有名になるなんて、富田勢厳は本当に「伝説の剣豪」。
負けた方の梅津は下の名前も「某(なにがし)」という、のちの世に伝わらないほどのザコ扱いされてます。
やっぱり、調子乗りすぎるとロクなことありませんな。
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