はじめに
この記事ではシリーズ化して伝説の剣豪・剣士・剣の達人を紹介しています。日本の歴史上の中で侍、武士が数多く名を残してきましたが、今回紹介する伝説の剣豪・剣士・剣の達人は【樋口又七郎】です。【樋口又七郎】は家伝であった念流を追い求め、ついに再興を果たした伝説の剣豪です。それでは【樋口又七郎】について流派や出身地も含め簡単に説明していきます。
樋口又七郎
名前:樋口又七郎定次
流派:馬庭念流
出身:上野国
年代:戦国時代(1554~1600)
念流への思い
樋口家の遠祖は木曽義仲四天王の一人・樋口次郎兼光であり、11代目に当たる樋口太郎兼重は念阿弥慈恩の高弟となり、「念流」の兵法を修めて「兼重念流」を興していました。
この兼重の子孫たちは樋口家の兵法として「念流」を受け継いでいましたが、13代目の高重の代に上野国馬庭村に移り住むと、高重は「新當流」を修めて樋口家の兵法は「新當流」へ変わっていき、17代目の又七郎定次の頃には「念流」の兵法はほとんど忘れ去られていました。
『樋口家系』には「念流8世又七郎定次、父業を継ぎ新當流を修め、業祖の遺流を復せんと欲すれど得る処なく」とあり、又七郎は父から「新當流」を学んだものの満足できず、祖先が修めた「念流」へ回帰の思いが強かったことが分かります。
ともかく、かつて家伝であった「念流」への思いがありながら日々過ごしていた又七郎。
ある日、又七郎が住む馬庭に眼医者の友松偽庵がフラッとやってきました。
そして友松偽庵は樋口家の親戚であった串田清兵衛と試合を行って散々に打ち負かします。
「新當流」を学んでいた清兵衛が眼医者ごときに簡単に負けたことに疑問を持った又七郎。
よくよく調べてみると、実はこの友松偽庵は念流正当7世にあたる者でした。
素性を知った又七郎は運命を感じ、すぐさま入門を願い出て友松偽庵から「念流」を学び、修行の末17年後に印可を与えられることなりました。
その後、又七郎は馬庭で念流道場を開いてさらに修行に邁進し、慶長3年(1598)に友松偽庵から伝書を受けて、ついに念流正当8世を名乗るようになりました。
決闘
慶長5年(1600)、又七郎は馬庭に現れた「村上天流」を名乗る村上権右衛門と木剣での試合を行うことになります。
この権右衛門は木剣の中に真剣を仕込んだ得物を使うとの噂があり、又七郎は試合にあたり神明の加護を求めて山名八幡宮に三日三晩の参籠を行いました。
すると満願の日、又七郎は持っていた木剣で岩を叩くと岩は真っ二つに割れたといいます。
3月15日、又七郎と権右衛門の決闘は高崎烏河原で行われました。
開始早々、権右衛門は噂通り真剣を仕込んだ木剣を振りかざし、飛び出した真剣が又七郎を襲います。
しかし、これをギリギリでかわした又七郎は、真っすぐに権右衛門の頭上に木剣を振り下ろしました。
権右衛門もこれを十文字の形で受け止めようとしましたが、又七郎の剛剣は無常にもそのまま権右衛門の脳天を砕きました。
のちに決闘について又七郎は「我の木剣をかわすか切り落とせばいいものを、引いて受け止めるとは未熟」と語ったといいます。
この後、又七郎は樋口家当主の座を弟・頼次に譲り「修行に終わりはない」と言って、彦根にいる師・友松偽庵のもとへ旅立っていきました。
樋口家の縁の松本家には、その後又七郎は彦根で右京という者と闘って敗死したと伝わっています。
おわりに
決闘の時、樋口又七郎の剣は受け止められたにもかかわらず、権右衛門の脳天をカチ割ることができたのは「念流」の日々の稽古のおかげってとこでしょうか。
現在でも「念流」の組太刀で頭から股下まで一気に斬り下ろす稽古が行われているのは、この又七郎の剛腕が影響しているといわれています。
さらに現在でも「念流」の演武では十文字に受け止められた状態から押し切る技が伝えられているというのですから、この又七郎の決闘が「念流」の中でいかに重要な出来事だったのかって話ですよね。
最後は「いやいや、死ぬんかいっ!」とツッコミたくなりますが。
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