大河ドラマ「いだてん」
第37話~最終回あらすじネタバレ
ここでは大河ドラマ「いだてん」の37話、38話、39話あたりから最終回までのザクッとしたあらすじ・ネタバレについて歴史と登場人物の生涯を絡めながら紹介していきたいと思います。
キーとなるのは、嘉納治五郎の死と1940東京オリンピックの返上、第二次世界大戦と戦後の田畑政治ってところでしょうか。
詳細なあらすじについては発表されていませんので、この記事は放送内容とは異なりますが、「いだてん」の今後が気になる方は大まかなあらすじということで、参考にしていただければいいかなと思います。
前回 大河ドラマ「いだてん」第36話のあらすじ
これまでの「いだてん」全話あらすじ
大河ドラマ「いだてん」第37話~最終回 あらすじ・ネタバレ
河野一郎のオリンピック返上論
日本と中国が軍事衝突し、日中戦争の火ぶたが切られた1937年(昭和12年)。
元朝日新聞記者で政治家となっていた河野一郎(桐谷健太)は、この国際情勢の中でオリンピックを開催することに疑問を抱き、オリンピックの中止についてに発言します。
すると発言力を高めていた軍部からもオリンピックへの選手派遣について異論が唱えられていきました。
田畑政治(阿部サダヲ)と河野一郎の激論なんかがあるのでしょうか?
また、このへんで金栗四三の弟子・小松勝(仲野太賀)とシマの娘・増野りく(杉咲花)のラブストーリーが展開し、五りん誕生という流れになるのかと。
嘉納治五郎の死去
1938年(昭和13年)になると日中戦争のために物資が不足し、オリンピックのための競技場の建設にも支障が出始めます。
すると国内では東京オリンピック開催に対して反対意見が広まっていきました。
一方、カイロで開催されたIOC総会では、1940年開催地を争って敗北したフィンランドから、東京開催の中止とヘルシンキでの代替開催を求める声が上がります。
各国のIOC委員たちは日中戦争を理由に開催返上を日本に促しますが、嘉納治五郎(役所広司)の尽力により一旦は返上を回避しました。
しかし、その後IOC会長・ラトゥールの元には東京開催反対の電報が各国から寄せられ、ついにラトゥールも開催辞退を持ちかけてきます。
そしてこのカイロIOC総会からの帰路、嘉納治五郎は肺炎を発病。
たまたま船で居合わせていた外交官・平沢和重(星野源)に看取られて船上で死去してしまいました。
嘉納治五郎の遺体は氷詰にして持ち帰られ、横浜港では棺にオリンピック旗をかけられて船から降ろされたといいます。
きっと、嘉納治五郎の亡骸をみて金栗四三、田畑政治らが号泣するような回が用意されでしょう。
一方、平沢和重はこの事がきっかけで、田畑政治の東京オリンピック招致へ深く関わることになっていきます。
オリンピック返上
これまで日本のスポーツ、東京オリンピック開催を引っ張ってきた嘉納治五郎の死去によって軍部の発言力はさらに増し、ついに日本政府は開催返上を正式に決定。
1940年のオリンピックは、東京に代わってヘルシンキでの開催が決定しますが、これも1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が勃発して結局開催できなくなります。
クーベルタン、嘉納治五郎、ラトゥール、オリンピックは平和の祭典であると信じてきた人物が次々とこの世を去り、ついにオリンピックは冬の時代を迎えてしまうのでした。
太平洋戦争
太平洋戦争中はスポーツ自体が厳しく統制され、日本では各連盟が自主解散していきました。
しかし、田畑政治はこれに同調することはなく「日本水上競技連盟」を残します。
戦争自体はドラマの中であっという間に終了すると予想されますが、徴兵されて満州で戦死するであろう小松勝(仲野太賀)と増野りく(杉咲花)の別れなどが悲しく描かれると思います。
田畑政治の戦後
戦後、オリンピックは第14回大会開催地にロンドンが選出されました。
「日本水上競技連盟」を解散しなかった田畑政治は戦後になって各連盟に先駆け、「日本水泳連盟」が発足させて日本水泳界を牽引し、「日本オリンピック委員会総務主事」に就任してロンドン・オリンピックへの選手派遣を目指します。
また、田畑政治は朝日新聞の東京本社代表取締役に就任するなど大きく境遇が変わっていきます。
ロンドン・オリンピック
戦争の爪痕が残るロンドンで各国の選手が再会し、平和を喜び合いますが、日本とドイツは戦争責任を問われ、参加を拒否されたために出場することができませんでした。
田畑政治は水泳で好記録を出していた古橋廣之進だけでも出場させようとしていますので、この拒否決定には間違いなくブチギレするでしょう。
「日本を明るくするため」と語っていた田畑政治は、このあと策士としての能力が爆発します。
こののち、田畑政治は水泳日本選手権を行い、古橋廣之進や橋爪四郎らに世界記録を更新させます。
しかも、この決勝はロンドン・オリンピック水泳決勝と同日に行いました。
「ざまあみろ」という田畑政治の思いもありましたが、この結果は日本人に勇気と自信、誇りを与えることとなりました。
国際復帰と2度目のロサンゼルス
田畑政治の筋書き通りにロンドン・オリンピックの記録を上回った日本水泳陣の記録にはIOCは驚きの色を隠せませんでした。
そこで田畑政治はかつてのライバル、アメリカ水泳監督・キッパスに協力を仰いで日本水泳連盟を国際水泳連盟へ復帰させることに成功します。
占領下にあった日本にあって、この田畑政治の行動はマッカーサーから高く評価され、日本水泳陣はロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されることとなりました。
そして思い出の地・ロサンゼルスに再び戻ってきた田畑政治率いる日本水泳陣。
ここで古橋廣之進や橋爪四郎が世界新記録を連発すると、世界の日本に対する世論が変り始め、この大会を期に日本の各競技は続々と世界連盟へ復帰して日本はオリンピック出場権を再獲得することになりました。
オリンピック出場と高石勝男との対立
1952年(昭和27年)、ヘルシンキ・オリンピックで田畑政治は日本選手団長を務めて選手を派遣しました。
しかし、結果を残すことはできず、さらに1956年(昭和31年)のメルボルン・オリンピックでも惨敗してしまいます。
この日本水泳界の低迷に危機感を覚えて立ち上がったのが日本水泳連盟大阪支部長・高石勝男(斎藤工)です。
改革を訴えた高石勝男と田畑政治は会長の座を巡って対立。
田畑政治はなんとか勝利したものの、水泳界を混乱させた責任ですぐに辞任となってしまいました。
こんなところで、まさかまーちゃんとかっちゃんの争いが起こるとは。
念願の東京オリンピック招致成功
水泳界から退いた田畑政治は、このあと嘉納治五郎の夢であった東京オリンピック招致を目指しました。
「オリンピックは金になる」として政府を巻き込んでオリンピック誘致活動を展開していく田畑政治。
そして参謀に岩田幸彰(松坂桃李)を迎え、嘉納治五郎を看取った平沢和重(星野源)、嘉納治五郎かかりつけの医師から東京市長に転身した東龍太郎(松重豊)らと共に1964年(昭和39年)のオリンピックを東京招致を成功させました。
いだてんの初回で放送されたあの場面です。
問題のインドネシア・アジア大会
東京オリンピック開催を受け、田畑政治は1959年(昭和34年)に東京オリンピック組織委員会の事務総長しました。
ところが1962年(昭和37年)、インドネシアで開かれたアジア大会への強行出場したことが原因で猛バッシングを受けます。
この大会はインドネシア大統領・スカルノが政治立場上の理由から台湾とイスラエルの参加を拒否したため、大会憲章に違反しているとされていました。
スカルノ大統領は、デヴィ夫人の旦那ですから本編終了後の「いだてん紀行」ではデヴィ夫人が出てくると面白いですね(笑)。
そして帰国後、田畑政治は不仲であったオリンピック大臣・川島正次郎によって事務総長を辞任させられました。
東京オリンピック
1940年東京オリンピック返上を一番に訴えていた河野一郎は、1964年大会開催時に建設大臣および五輪担当国務大臣を務め、嘉納治五郎たちの夢「東京オリンピック開催」に大きな貢献をすることになりました。
一方、田畑政治は自らが呼び込んだ東京オリンピックでは選手の応援に徹しました。
この時、日本水泳の総監督は高石勝男(斎藤工)でしたが、他の競技に比べて水泳陣の成績は振るわず、銅メダル1個という結果に終わっています。
このままでは最終回がしまらないので、なんらかの感動の場面で有終の美を飾ることになるのでしょうね。
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