前畑秀子|いだてん|上白石萌歌が3年A組に続き水泳選手に!平泳ぎで日本女性初の金メダルを獲得した前畑秀子の生涯

   

大河ドラマ「いだてん」
前畑秀子

大河ドラマ「いだてん」で阿部サダヲが演じる主人公・田畑政治が活躍する後半で登場するのが、水泳選手『前畑秀子』という女性。この記事では『前畑秀子』の生涯とエピソードについて語っていきます。

まず、『前畑秀子』に配役されているのは若手注目株の女優・上白石萌歌さん。

昨年の大河ドラマ「せごどん」で妹の萌音さんが出演(西郷従道の妻・清子)していたことから姉妹での連続出演を果たしたことになりますね。

さて、この上白石萌歌さん、直近のドラマ「3年A組-今日からみなさんは人質ですー(2019.1月~3月まで日曜10時放送) 」では物語の発端となった重要な役・景山澪奈という人物を演じていました。

この景山澪奈は水泳部のエースでオリンピック候補だったことから、今回の配役はとても面白い因果です。

 

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話は戻して本題の『前畑秀子』という女性ですが、1936年(昭和11)のベルリン・オリンピックで日本人女性初の金メダルを獲得し、当時の日本を歓喜、興奮させています。

皆が興奮したのは「日本人女性が初めての金メダルを獲得」したからなのですが、さらにこの興奮を倍増させていたのがラジオ実況中継でした。

このベルリン・オリンピックから初めて日本ではラジオ実況中継が行われ、日本人は初めてLIVEでオリンピック放送を聞くことができました。

そんな中、前畑秀子が挑んだ決勝戦が始まり、興奮したNHKの河西三省アナウンサーは我を忘れて「前畑ガンバレ!ガンバレ!」を23回も連呼。

さらに「勝った!勝った!前畑勝った!」を12回連呼して、日本国中が大興奮に包まれたのです。

「いだてん」ではこの伝説の実況中継を彩るため、トータス松本さんが河西三省を演じることになるので「バンザイ」ばりの大絶叫が予想できますね。

 

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13歳で日本新記録を出す少女・前畑秀子

前畑秀子は1914年(大正3)に和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)で豆腐屋を営む家に生まれました。

紀ノ川で泳ぎを覚えた前畑秀子は、小学3年生の時に4年生以下でただ一人1,000mを泳ぎ切って水泳部の入部資格を獲得。

めきめきと上達した前畑秀子は小学校5年生の時に女子50m平泳ぎで日本学童新記録を出し、高等小学校1年生の時には若干13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立して名を轟かせます。

さらに高等小学校2年生の時に汎太平洋女子オリンピックに出場して100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝。

この結果を受けて小学校卒業後に家業を手伝うはずだった前畑秀子の人生は一変。

校長たちは水泳の才能を惜しんで両親を説得し、名古屋の椙山女学校(現・椙山女学園)に編入させて水泳を続けさせてくれました。

そして椙山女学校の椙山正弌校長は寮まで提供し、学園内にプールを新設するなど厚い待遇で前畑秀子を受け入れます。

これほどまでに周囲から才能を認めてもらえる前畑秀子でしたが、決して何もかもが幸せだったわけではありません。

1931年(昭和6)1月には母が脳溢血で亡くなり、その6月には父も脳溢血で亡くなるという不幸にも見舞われています。

 

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銀メダルは許されない前畑秀子

度重なる不幸に心痛めた前畑秀子ですが、いつまでも悲しんでばかりもいられません。

翌1932年(昭和7)にはロサンゼルス・オリンピックがあったからです。

その後、周囲の支えもあって水泳に打ち込むことができた前畑秀子は、無事にオリンピック選手に選ばれました。

そして始まったオリンピックでは、女子200m平泳ぎで惜しくも0.1秒差の2位となり銀メダルを獲得。

前畑秀子は全力を出し切ったことに満足し、家庭の事情から引退することにしました。

しかし、そんな前畑秀子を周囲が許しません。許すわけがありません。

祝賀会の席で東京市長・永田秀次郎は「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念で堪らない」と話し、日本国民からは「悔しい。次回ベルリンでの雪辱を!」とのの声があがっていることを告げました。

そして、これまで選手生活を支えてくれた椙山正弌校長からも次回オリンピック出場を勧められてしまいます。

こうして前畑秀子は周囲の期待に応えるために現役続行を余儀なくされたのです。

 

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前畑秀子の金メダル

1933年(昭和8)、前畑秀子は200m平泳ぎの世界新記録を樹立。

この頃の前畑秀子は周囲からの過剰な期待に応えるため過酷な練習をしており、後に「練習中、泳いでいながらプールの中で汗が流れるのがわかった」と語っています。

1936年(昭和11)のベルリン・オリンピック。

22歳になった前畑秀子はドイツに向かう船内で「もし、金メダルが取れなかったら帰りの船から身を投じよう」と日記に書くほどのプレッシャーを感じていました。

そして運命の女子200m平泳ぎ決勝。

前畑秀子のライバルは地元開催で圧倒的な声援を浴びるドイツのゲネンゲル選手でした。

日本時間の午前0時過ぎに始まるこの試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは、冷静に「スイッチを切らないでください」という言葉から始めました。

しかし、河西三省アナは途中から興奮のあまり語彙力が低下し、「前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネルゲンも出てきました。ゲネルゲンも出ております。がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! 前畑、前畑リード! 、前畑リード! 前畑リードしております。前畑リード、前畑がんばれ! 前畑がんばれ! リード、リード、あと5メーター、あと5メーター、あと4メーター、3メーター、2メーター。あっ、前畑リード、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑の優勝です、前畑の優勝です!」と叫び散らかしました。(ゲネンゲルとの差は僅か0.6秒)

こうして前畑秀子は日本人女性初となる金メダルを獲得し、河西三省アナは伝説の実況として後世に語り続けられていくことになったのです。

 

 

ゲネルゲンとのツーショット

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その後の前畑秀子

オリンピック後、選手生活を続行した前畑秀子は1937年(昭和12)に名古屋医科大学の助手・兵藤正彦とお見合いして結婚。

引退後の前畑秀子は椙山女学園職員として後進の育成に努め、名古屋市瑞穂プールでは全国初の水泳教室を開くなど水泳と関わり続けていきました。

また、国際水泳連盟に殿堂入りしたことから、前畑秀子は女性の社会進出のシンボルともなっていきました。

1995年(平成7)、多くの功績を残して前畑秀子は80歳で急性腎不全のため死去。

ちなみに前畑秀子は栄光の金メダル獲得から41年後、1977年(昭和52)にオリンピックでデッドヒートを繰り広げたライバル・ゲネンゲルと再会しています。

この時、二人は50mを一緒に泳ぎ、前畑秀子はゲネンゲルの自宅に宿泊したといいます。

ベルリンで国民の期待から重圧を背負わされていた二人。

過去のお互いの苦しみが理解できる相手と笑顔で泳ぎ、昔話に花を咲かせる特別な時間だったことでしょう。

 

再会の場面

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