大河ドラマいだてん
~東京オリムピック噺~
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」後半の主人公を務めるのは、阿部サダヲが演じる『田畑政治(たばたまさじ)』。
阿部サダヲと大河ドラマといえば、2年前の「おんな城主直虎」で頼りない徳川家康を演じたことが記憶に新しいですが、今回の『田畑政治』はかなりのキレ者感がある役になると思います。
今までにない、お金持ちで超エリートの道を進んだ主人公ってところは、NHKさんの大河ドラマへの新しい挑戦と言えるかもしれません。
さらに、この『田畑政治』の長男・田畑和宏はNHKに勤務し、NHKの理事にまで出世していて「主人公の座をコネで勝ち取っているのでは?大丈夫?」ってところがこれまた挑戦的で面白い。
そんなNHKさんの挑戦が吉とでるか、凶とでるか、皆さんで見守っていきましょう!
では、簡単ではありますが『田畑政治』の生涯について紹介しています。
日本水泳界の頂点に立った田畑政治
田畑政治は静岡県浜松市成子町で酒造業を営み、浜松一の金持ちと言われた田畑庄吉の次男として生まれました。
父と祖父が結核で早世したため、母・田畑うらは子供たちを丈夫な子に育てようと、夏休みになると浜名湖の弁天島の別荘に連れていき、水泳をさせていました。
このため、泳ぎが得意になった田畑政治は「遠州学友会水泳部」でエースとして君臨。
しかし、田畑政治もやはり病気に悩まされ、浜松一中4年生の時には医者から水泳を禁じられてしまいます。
それでも水泳から離れることができなかった田畑政治は、指導者として浜松一中を日本一に導く決意を固め、卒業しても後輩の指導を続けて周辺の水泳部を統合した「浜名湾流泳協会」を発足させました。
また、東京帝国大学に入学していた田畑政治は、地元の有力者を説得して浜名湖で全国競泳大会を開催。
このとき浜松一中は優勝を逃しましたが、翌年の同大会では浜松一中が日本一に輝き、田畑政治の念願は達成されました。
出典:https://dmhamanakocs.jimdo.com/
その後、東京帝国大学を卒業した田畑政治は朝日新聞社の面接で創設者の村山龍平に気に入られて入社し、政治記者となります。
しかし、田畑政治の働きぶりは良くなかったようで、仕事をさぼって地元で水泳指導などをしていました。
この頃、水泳界では名の知れた人物になっていた田畑政治は「大日本水泳競技連盟」の理事に就任し、1928年(昭和3年)のアムステルダム・オリンピックに選手を派遣するため、政治記者としてのコネを使って大蔵大臣の高橋是清から補助金を引き出します。
このオリンピックで金メダルを獲得した功績もあり、その後田畑政治は「大日本体育協会理事」、「日本水上競技連盟名誉主事」などの要職に就くことになります。
1932年(昭和7年)のロサンゼルス・オリンピックでは、田畑政治が日本競泳の監督を務め、金5個、銀5個、銅1個のメダルを獲得。
さらに、1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックでも本部役員を務めた田畑政治は、金4個、銀2個、銅5個を獲得し、1939年(昭和14年)には「日本水上競技連盟理事長」に就任して名実ともに日本水泳界のトップになりました。
栄光と挫折を味わう田畑政治
太平洋戦争中はスポーツ自体が厳しく統制され、各連盟が自主解散していきましたが、田畑政治は「日本水上競技連盟」を残します。
このため、戦後に各連盟に先駆けて「日本水泳連盟」が発足し、田畑政治は理事長に就任して日本水泳界を牽引し続けました。
そして1947年(昭和22年)に「日本オリンピック委員会総務主事」に就任した田畑政治は、1年後のロンドン・オリンピックへの選手派遣を目指します。
そんな中でも、田畑政治は朝日新聞の社主となった先輩・長谷部忠から頼まれ、東京本社の代表取締役に就任していました。
出典:https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/
そして開催されたロンドン・オリンピックでしたが、日本は参加を拒否されたため、出場することができませんでした。
このため、田畑政治は水泳で好記録を出していた古橋廣之進だけでも出場させようと、あの手この手を使いますが失敗。
ブチギレした田畑政治はロンドン・オリンピックの水泳競技の決勝と合わせ、同日に水泳日本選手権決勝を行い、古橋廣之進や橋爪四郎らに世界記録を更新させます。
そして日本競泳陣の記録に驚いた国際オリンピック委員会は、各競技の国際連盟に復帰を条件に日本のオリンピック出場権を認めたため、田畑政治はアメリカ水泳監督キッパスに協力を仰いで日本水泳連盟を国際水泳連盟へ復帰させました。
これら田畑政治の行動はマッカーサー元帥から高く評価され、ロサンゼルスで行われた全米選手権に古橋廣之進らが参加することとなります。
ここで古橋廣之進や橋爪四郎は世界新記録を連発したため、世界の日本に対する世論が完全にひっくり返り、その後日本の各競技は続々と世界連盟へ復帰して日本はオリンピック出場権を獲得していくことになりました。
みたか!USAよ
しかし、この頃に田畑政治は朝日新聞社の社主となっていた村山長挙に追い込まれ、退社を余儀なくされます。
こののち、田畑政治は三島製紙の取締役となって1952年(昭和27年)のヘルシンキ・オリンピックで日本選手団長を務めるも結果は振るわず、さらに1956年(昭和31年)のメルボルン・オリンピックでも惨敗に終わります。
こうした日本水泳界の低迷に危機感を覚えた日本水泳連盟大阪支部長・高石勝男は、会長選で田畑政治と対立。
田畑政治は会長選でなんとか勝利したものの、水泳界を混乱させた責任で辞任となってしまいました。
東京オリンピックからの追放を受けた田畑政治
その後、田畑政治は国際オリンピック委員フレンケルから「オリンピックは金になる」と後押しされ、政府を巻き込んでオリンピック誘致活動を展開。
1964年(昭和39年)のオリンピックを東京開催にすることに成功します。
そして1959年(昭和34年)に東京オリンピック組織委員会の事務総長に就任して、1963年(昭和38年)には予行演習として東京国際スポーツ大会を企画しました。
ところが1962年(昭和37年)、インドネシアで開かれたアジア大会でインドネシアのスカルノ大統領(デヴィ夫人の旦那)が政治立場上の理由から台湾とイスラエルの参加を拒否する事件が発生。
これは大会憲章に違反しているとされ、日本国内では「この大会に出場すれば日本の立場が悪くなり、東京オリンピック開催がなくなるのでは?」との声が上がります。
しかし、すでに現地入りしていた田畑政治は日本選手団を出場させたため、帰国後に猛バッシングを受けることになりました。
そしてかねてより不仲であったオリンピック大臣・川島正次郎によって、田畑政治は東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任させられます。
その後、自らが呼び込んだ東京オリンピックで田畑政治は選手の応援に徹し、終了後は各スポーツ団体の要職を歴任して1984年(昭和59年)に死去しました。享年87。
あーた、よくやったと思うわよ
【いだてん】あらすじ
【いだてん】人物・キャスト