大河ドラマ【いだてん】
~東京オリムピック噺~
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主人公の1人を務めるのは、中村貫九郎が演じる『金栗四三(かなくりしそう)』。
これまで「サムライ」と呼ばれるような、ちょんまげ姿の主人公が多かった中で、今回の「いだてん」の主人公『金栗四三』はかなり画期的であり、挑戦的であります。
私はこの『金栗四三』という人物を知らなかったので今回調べてみましたが、知れば知るほど本当にスゴイ人だと分かりました。
写真で見てもらっても『金栗四三』の素晴らしい笑顔が分かると思いますが、きっと周りも『金栗四三』の魅力に惹かれていったのだと思います。
時代劇ではない大河を拒絶する声もあろうかと思いますが、この『金栗四三』さんは十分、大河ドラマの主人公として相応しい人物ですよ。
この記事では、簡単ではありますが『金栗四三』の生涯について紹介しています。
いだてん金栗四三の学生時代
金栗四三は、1891年(明治24年)8月20日に熊本県玉名郡春富村(旧:三加和町、現:和水町)で誕生しました。
造り酒屋を営んでいた信彦とシエの間の8人兄弟の7人目の子でした。
四三は、吉地尋常小学校(現:和水町春富小学校)を卒業したあと、10才で玉名北高等小学校(現:南関町)に入学。
この玉名北高等小学校には、毎日往復12キロの道のりを走って通学したといいます。
のちに四三は「マラソンの基礎を作ったのは高等小学校時代に一里半の通学によるもの」と語っています。
1905年(明治38年)に四三は玉名中学校(現:玉名高校)に進学。
学校敷地内の寄宿舎で生活し、優秀な成績を残して特待生として授業料免除を受けていました。
玉名中学校を卒業後、1910年(明治43年)に東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学。
四三は講道館柔道の創始者でもある校長・嘉納治五郎に才能を見出され、1911年(明治44年)にストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場。
マラソン足袋で当時の世界記録を27分も縮める大記録(距離:40.225キロ/2時間32分45秒)を叩き出して、短距離走の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となりました。
いだてん金栗四三、オリンピック出場
そして迎えた1912年(明治45年)、ストックホルムオリンピック本大会。
最高気温40℃という記録的な猛暑の中でマラソンは開催されましたが、当日は迎えに来るはずの車が来なかったため、四三は競技場まで走らなければいけませんでした。
レースが始まると四三はスタートで出遅れて一時は最後尾になりますが、その後疲れてきた他国選手を追い抜いて17~18位まで順位を上げていきました。
しかし折り返し地点を過ぎて間もなく、日射病によって意識が朦朧となり、ついに26.7キロ地点でコースをはずれて林の中で意識を失って倒れてしまいました。
その後、四三は地元の農家・ペトレ家に助けられ、目を覚ましたのは翌日の朝だったといいます。
このため四三の棄権の届出は正式に本部に届いておらず、四三も競技場へ戻らずに宿舎に戻ってそのまま帰国しました。
このレースでは参加者68名中、約半分が途中棄権し、翌日に死亡した選手もいたといいます。
一方、スウェーデンではマラソン中に消えた日本人の話は地元で話題の一つとして語り草になっていました。
マラソン中にお茶会に誘われて、そのままマラソンを中断したという噂もあったそうです。
出典:http://www.city.tamana.lg.jp/
いだてん金栗四三のスポーツ愛
帰国した四三は、1914年(大正3年)に東京高等師範を卒業して研究科へ進みます。
そして22歳の時に親戚だった玉名郡小田村(現:玉名市上小田)の池部家の養子となる話がまとまり、石貫村(現:玉名市)の春野スヤさんと結婚。
四三は東京府女子師範学校などで地理の教師をしながら、走りに磨きをかけました。
しかし、メダルが期待された1916年(大正5年)のベルリンオリンピックは、第一次世界大戦の影響で開催中止。
その後、四三は1920年(大正9年)のアントワープオリンピック、1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場しましたが、いずれも思うような成績を残せませんでした。
選手生命を終えた四三は、3度のオリンピックで世界の水準を目の当たりにした経験から、日本でもスポーツを広めなければならないと決意します。
日本体育・マラソン普及のため、一人ではなくチームで長距離を走る『駅伝』を発案。
日本初の駅伝・東海道五十三次駅伝(大正6年)や箱根駅伝(大正9年)を企画しました。
また、ヨーロッパの女子もスポーツに参加する光景に感銘を受けていた四三は、女学生たちの心身を鍛える重要性を提唱しました。
そして1921年(大正10年)、四三は東京府女子師範学校で初めて女子テニス大会・女子連合競技大会を開催。
1923年(大正12年)には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興にも力をいれていきました。
1931年(昭和6年)、四三は故郷・玉名に帰り、学校対抗マラソン大会や駅伝競走をするなど、県内外においてマラソン普及に努めます。
また、1936年(昭和11年)に日本でのオリンピック開催準備のため上京して奔走しています。
その後、1938年(昭和13年)に第12回オリンピック東京大会返上が決定しました。
出典:http://www.city.tamana.lg.jp/
いだてん金栗四三、感動のゴール!
ストックホルムオリンピックから50年後の1962年(昭和37年)、スウェーデンの新聞記者が「消えた日本人」の謎を解明するため、玉名の自宅で金栗さんを取材しました。
そして取材結果はスウェーデンの新聞やテレビで大きく取り上げられ、1967年(昭和42年)に四三は、スウェーデンオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されました。
これまで「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた金栗四三選手。
オリンピック委員会は四三を記念式典でゴールさせるために招待し、四三は競技場をゆっくりと走って場内に用意されたゴールテープを切りました。
この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」と粋なアナウンスがされました。
四三はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」と語り、記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録として名を残しました。
晩年は故郷の玉名市で過ごしながらも、各地のマラソン大会へ出かけては選手たちの激励やスターターをつとめ笑顔でレースを見守っていました。
1983年(昭和58年)11月13日に92歳で死去。
選手としてはオリンピックで結果を残せませんでしたが、日本初の大きな国際大会への参加から得た教訓からマラソンの発展と日本スポーツの基礎を築いた金栗四三。
「体力・気力・努力」の精神のもと「誰もがスポーツを楽しむ日本を作ろう」と捧げた一生でした。
出典:https://headlines.yahoo.co.jp/
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