大河ドラマ「いだてん」
犬養毅
大河ドラマ「いだてん」で塩見三省が演じるのが、第29代内閣総理大臣に就任した犬養毅。
犬養毅は若いころに新聞記者として西南戦争に従軍した経験があり、田畑政治ら新聞記者とは気さくに情報交換したといいます。
しかし、やがて犬養毅は満州事変について平和的解決を進めたことから軍部の怒りを買い、有名な言葉「話せば分かる」を残してこの世を去りました。
この記事では「憲政の神様」とも呼ばれ、決して軍部との関係は悪いものではなかった犬養毅について簡単に紹介していきます。
読めば分かる!
犬養毅
憲政の神様・犬養毅
犬養毅は1855年(安政2年)に備中国(岡山県)で大庄屋を営んでいた犬飼源左衛門の次男として生まれた。
もともと犬飼家(のちに犬養に改姓)は名家であったが、父がコレラで急死したために生活は苦しかったという。
1876年(明治9年)、犬養毅は上京して慶應義塾に入学し、在学中に郵便報知新聞の記者として西南戦争に従軍。
1882年(明治16年)には大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、政治家として大同団結運動などで活躍した。
大隈重信の右腕となった犬養毅は藩閥、軍閥を厳しく批判し、護憲運動の中で尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれた。
政界で影響力を誇っていた藩閥、軍閥の重鎮・山縣有朋は「政治家の中で自分のもとを訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」と語ったという。
そして1898年(明治31年)、犬養毅は尾崎行雄のあとを受け、大隈内閣の文部大臣となった。
その後、犬養毅は右翼の巨頭である頭山満とともに中国に渡り、1911年(明治44年)の孫文らの辛亥革命を援助。
帰国後は逓信大臣などを務めたが、やがて政界から引退して富士見高原の山荘に引きこもった。
しかし、世間の人々は犬養毅の引退を許さず、岡山県の支持者たちは勝手に犬養毅を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。
そして立憲政友会が後任総裁をめぐって争いを起こすと、犬養毅は強引に担がれて総裁に就任することとなった。
犬養毅の満州支配構想
1930年(昭和6年)、犬養毅は鳩山一郎とともに濱口雄幸内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して政府を攻撃した。
これは日本の民主主義の後退を意味し、東京朝日新聞は軍の最高権限(統帥権)を政治利用した犬養毅らを非難している。
同年、満州事変が起こると濱口内閣のあとを受けた若槻礼次郎内閣が総辞職となる。
そこで元老の西園寺公望は、満州事変を話し合いで解決しようとする犬養毅を評価し、昭和天皇に推薦した。
こうして犬養毅は77歳で内閣総理大臣となり、大蔵大臣には高橋是清を起用して不況からの脱却を図った。
また、満州事変を期に満州国の承認を求める軍部の要求を犬養毅は拒否し、独自の繋がりを持つ中国国民党との外交交渉で解決しようとしていた。
犬養毅の解決案とは、満州国の領有権は形式的に中国としつつ、実質的には日本が経済的支配下に置くというもので、中国には元記者の萱野長知を送り込んで折衝させていた。
しかし、この萱野からの電報は、犬養毅の外交姿勢に不満を持つ内閣書記官長の森恪に握り潰されてしまう。
このため交渉はやがて行き詰まり、犬養毅の満州支配構想は実現することができなかった。
犬養毅は軍部が求める満州国の承認には消極的であったが、その一方で膨大な軍事費を支出していたため陸軍との関係は悪くなかった。
しかし、一部の青年将校の振る舞いには嫌悪感を強めており、天皇に上奏して問題の青年将校ら30人程度を免官させようと考えていた。
このことは森から軍部に情報が行き渡り、軍部は統帥権の侵害であると怒り狂うこととなってしまう。
また、犬飼内閣が成立する以前、青年将校たちはロンドン海軍軍縮条約に不満を持ち、怒りの矛先を条約締結の際に活躍して内閣総理大臣となった若槻礼次郎に向けていた。
しかし、その若槻礼次郎は1年足らずで総理を辞任してしまったため、青年将校の矛先は若槻礼次郎から政府全体に転換した。
犬養毅は条約に反対する軍部に同調し、軍部からは感謝されていた人物であったが、内閣総理大臣に就任して政府のトップとなったために青年将校の標的になってしまったのである。
「話せば分かる」五・一五事件
1932年(昭和7年)5月15日、犬養毅は総理公邸で休日を過ごしていた。
この時、犬養毅はは往診に来た医者に「体中調べてどこも異常なしだ。あと100年はいきられそうじゃ」と言っていた。
すると夕刻になって警備も手薄の中、突如として青年将校の一団が乱入してきた。
そして襲撃犯の一人・三上卓は犬養毅を見つけると即座にピストルの引き金を引いたが不発に終わり、その様子を見た犬養毅は両手を上げて「話せば分かる」と言って、青年将校たちを応接室に招き入れた。
応接室に入ると、落ち着き払った犬養毅は「靴ぐらい脱いだらどうだ」と話し、青年将校たちにタバコを勧めたが、三上は「何か言い残すことはないか」と返答した。
犬養毅が何言か話そうとした時、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃て!」と叫び、別働隊の黒岩勇が突入してきて犬養毅を撃った。
これと同時に三上も発砲して弾丸は頭部に命中し、青年将校たちはその場を去って行った。
女中たちが駆けつけた時、犬養毅の意識ははっきりしており「今、撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と言ったという。
また、22時頃に犬養毅は大量に血を吐いたが、周囲には「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と話すほど元気だった。
そして見舞いに来た者にも「9発撃って3発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか」と嘆いたという。
しかし、犬飼毅はそのあとで次第に衰弱し、23時26分に死亡した。享年78。
事件の翌日、内閣は総辞職し、次の総理には軍人出身の齋藤實が就任した。
そして日本はその後、中国進出を進めて国際的孤立の道を突き進んでいく。
一方、五・一五事件の犯人たちは数年後には全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部でそれなりの地位についた。
また、この事件でほとんどの政治家は軍部に対し、批判的な言動を差し控えるようになっていった。
このことが、やがて大規模なクーデター(二・二六事件)の発端を作っていくのである。
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