大河ドラマ【いだてん】
~東京オリムピック噺~
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主人公・金栗四三(かなくりしそう)の親友として登場するのが生田斗真が演じる『三島弥彦』。
金栗四三と共に日本人として初めてオリンピックに出場した『三島弥彦』は、東京帝国大学(現:東京大学)に在籍し、しかもスポーツ万能の超エリート選手でした。
オリンピック開会式では『三島弥彦』は旗手という大役を務め(といっても2人しか出場してませんが)、短距離に出場しますが大惨敗。
世界との差を身をもって感じた『三島弥彦』は、その後スポーツの一線から身を引いていきます。
大河ドラマいだてんでは、そのあたりの『三島弥彦』の苦悩や金栗四三との関係などがどのように描かれていくのか、今から楽しみな要素でもあります。
この記事では、簡単ではありますが『三島弥彦』の生涯について紹介していきます。
いだてん三島弥彦が代表に
三島弥彦は、1886年(明治19年)2月23日に東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)で生まれました。
父は警視総監の三島通庸、兄には銀行家の三島彌太郎がいて、学業も優秀だった弥彦は学習院から東京帝国大学(現:東京大学)法科に進学しています。
当時の日本の平均身長は約155cmでしたが、弥彦は170cmもあって野球、ボート、スキー、柔道、乗馬、相撲、スケートなど、あらゆるスポーツで才能を発揮していました。
また、弥彦はプレイヤーとしてだけではなく、審判としても早慶戦などの試合を務めています。
このため、スウェーデンのストックホルムで開かれる第5回国際オリンピック大会予選競技会で、弥彦は審判委員としての要請がありました。
弥彦はこの審判員を断りますが、観戦だけしようと会場に赴きます。
しかし、到着した弥彦はジッとして居ることができず、飛び入り参加して100m、400m、800mの各短距離徒競走で第1位、200mで第2位を獲得してしまいました。
この結果、弥彦はマラソンおよび10,000mに出場が予定された金栗四三と二人でオリンピック派遣選手に選ばれました。
いだてん三島弥彦とオリンピック
派遣決定後、弥彦は金栗と二人でアメリカ大使館書記官・キルエソンに陸上競技の技法などを学び、どんどんタイムを縮めていきましたが、弥彦本人は『かけっこ』なんかで渡航してよいものかと悩み、また欧米人のスポーツショーの見世物にされると誤解した文部省の無理解にも苦しめられたといいます。
しかし、その後学友や帝大総長の励ましもあって卒業試験は延期となり、弥彦は五輪出場の意を固めました。
1912年(明治45年)5月16日、所属していたスポーツ団体「天狗倶楽部」や、慶應義塾野球部のOB会「東京倶楽部」のメンバーらが見送るなか、弥彦はストックホルムへと旅立ちました。
1912年(明治45年)7月6日、弥彦は旗手としてオリンピック開会式に登場。
日本の出場選手は2名のため、行列人数が非常に少なかったことが群集の同情をひいたといわれます。
当日の午後、弥彦は短距離予選に出場しますが、最初の100m予選でトップに1秒以上の差をつけられて敗退。
弥彦はすっかり意気消沈してしまい、金栗四三に「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と語ったといいます。
200m予選でも、弥彦は最下位。
400m予選では、100m、200mで金メダルを取ったアメリカのラルフ・クレイグ選手が棄権したこともあって、弥彦は準決勝進出の権利を得ますが、右足の痛みを訴えて棄権してしまいました。
出典:http://www.ssf.or.jp/history/
その後の三島弥彦
金栗四三の競技も終えると、弥彦は嘉納団長や金栗と4年後のベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式の前に出国して次回開催国のドイツに向かいました。
ベルリンでは会場などの視察をした後、砲丸や槍投げなどの日本では有名でないスポーツ用品を買い込んで帰国します。
その後、ベルリン大会が第一次世界大戦の影響で中止となり、8年間の中断を経て1920年(大正9年)にアントワープ大会が開催されますが、弥彦は既に肉体的に衰えを感じていたため、予選にも参加しませんでした。
1913年(大正2年)、東京帝国大を卒業した弥彦は、兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行して青島支店支配人、検査人などを歴任しました。
大学卒業後の弥彦はスポーツから完全に離れており、1954年(昭和29年)2月1日に死去するまでメディアにも登場することはありませんでした。
弥彦はスポーツマンにしてはおっとりした性格で、楽天家で無頓着な人物だったといわれています。
また、スポーツマンとして多才であったことから人気は高かったようです。
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