大河ドラマ「いだてん」
高石勝男(斉藤工)
大河ドラマ「いだてん」で斎藤工が演じるのが、日本水泳の第一人者だった高石勝男という人物。
登場当初、高石勝男は田畑政治から「勝っちゃん」と呼ばれ、一緒に麻雀なども楽しむような選手と監督を超えた関係にありますが、やがて若手選手の台頭によってロサンゼルス・オリンピック直前に田畑政治から事実上の戦力外通告をされる運命にあります。
このロサンゼルス・オリンピックは、高石勝男にとって残酷な大会であったかもしれませんが、その後も高石勝男は水泳への情熱を持ち続け、田畑政治が誘致した東京オリンピックでは水泳総監督を務める近代的な指導者として返り咲きました。
この記事では、人気俳優・斎藤工を脇役として惜しげもなく使った高石勝男の生涯と、オリンピック後の人生(その後)、さらに誰からも愛された高石勝男のド派手な葬儀について紹介していきます。
高石勝男
日本水泳の黎明期を支えた高石勝男
1906年、大阪に生まれた高石勝男は、茨木中学校に入学して水泳競技に目覚めました。
茨木中学校のプールは、大阪府知事から生徒に夏季水泳の訓練を必修課目とするという指示を受けて作られた日本初の学校プールでした。
高石勝男が14歳のときアントワープ・オリンピックに出場していた内田正練は、古式泳法と欧米選手のクロール泳法の差に圧倒され、帰国後は日本全国にクロールの普及活動を行っていました。
このため、茨木中学校でもクロールは研究され、そのおかげで高石勝男たち生徒はグングン成績を伸ばしていきました。
その後、早稲田大学に進んだ高石勝男は1924年(大正13年)にパリ・オリンピックに初出場します。
すると髙石勝男はいきなり100mと1,500mの自由形で5位に入賞し、日本水泳界を驚かせました。
これは日本の水泳選手として初の入賞だったのです。
そして4年後、1928年(昭和3年)のアムステルダム・オリンピックでは高石勝男は800m自由形リレーで銀メダリスト、100m自由形で銅メダリストに輝きました。
しかし、この時の主役は日本女子初のメダリストとなった人見絹枝(800m走銀メダル)と、日本初の金メダリストとなった織田幹雄(三段跳び)、鶴田義行(200m平泳ぎ)たちでした。
こののち、高石勝男は1932年(昭和7年)開催のロサンゼルス・オリンピックに出場するため、練習に励んでいましたが、飛躍的に実力を伸ばした水泳界には前畑秀子のような新しい若手選手が続々と現れてきます。
そして迎えた、ロサンゼルス・オリンピックではキャプテンとして参加しながらも競技に出場することは叶いませんでした。
この時の高石勝男については、大河ドラマ「いだてん」で次のように描かれています。
大河ドラマ「いだてん」での高石勝男のロサンゼルス・オリンピック
ロサンゼルス・オリンピック直前、全ての種目で金メダルを目指す水泳総監督・田畑政治は高石勝男を呼び出し、「今の君にメダルは取れん。試合には出さん」と残酷な言葉をかけます。
ラジオへの出演も、田畑政治は出場する選手はナーバスになっているからと、『ノンプレイングキャプテン』と称し、高石勝男に出演を引き受けさせるという何とも適当な扱い。
プライドをズタズタにされた高石勝男は不満を口にしつつ、それでも鶴田義行と共に練習に励みます。
しかし、実際このベテラン2人は若手選手の実力には自信喪失していました。
その後、若手から「高石勝男に有終の美を飾らせてあげて欲しい」との声があがりますが、田畑政治は頑としてこれを拒みます。
「なぜ、そこまでメダルにこだわるのか?」疑問に思った監督・松澤一鶴が問いかけると、田畑政治は答えました。
「日本を明るくするためだ。不況と戦争の影が忍び寄る中、新聞には暗いニュースばかり書かれている。誰かが明るいニュースを書かないといけない。もし、水泳が全種目制覇すればオリンピック中だけでも明るいニュースがでる。号外も出るかも。いや出るね。だってもう書いてきたもん!スポーツが国を変えることができるじゃんねぇ!」
ドアの外で話を聞いていた高石勝男は、ここで初めて田畑政治の熱い思いを知りました。
その後、代表選手が発表されますが、やはり高石勝男の名はありせん。
しかし、高石勝男は田畑政治と共にラジオに出演し、若手選手たちについて明るく語るようになっていました。
水泳競技開幕後、リレーでアンカーを務めるはずだった大横田勉が体調を崩し、高石勝男に任せる案が浮上した時に、田畑政治は「奇跡が起こるかも」と高石アンカー案に賛成しました。
しかし、今度は松澤一鶴が「全種目制覇して日本を明るくするんじゃなのか!総監督が奇跡なんて信じてどうする!」と一喝し、高石勝男の出場は叶いませんでした。
その一方で、高石勝男と一緒に練習をしていた鶴田義行は、成長著しい小池礼三の「練習台」と呼ばれていたにもかかわらず、200m平泳ぎで金メダルを獲得(小池は銀メダル)し、ベテランの意地を見せつけています。
その後の高石勝男
戦後間もない1949年(昭和24年)、「子どもたちの夏休みを有意義なものにしたい」という思いを持っていた高石勝男は、芦屋市長をしていたスポーツ界の大先輩・猿丸吉左衛門に相談し、市の主催事業として「芦屋水練学校」を開くことになりました。
高石勝男は芦屋水練学校の理念に「国民皆泳」「水難事故防止」「低年齢層からの水泳選手強化」を掲げ、泳ぎの苦手な子を全員泳げるようにするため試行錯誤していきます。
そして毎年100人を超す泳ぎが苦手な生徒と向き合った結果、高石勝男が考え出した方法が犬かきを変形した「高石流」と呼ばれる泳法でした。
この泳法は修得すれば、次の平泳ぎやクロールが簡単に移行できるため、一週間の講習でほとんどの生徒が50メートルを泳げるようになったといいます。
数々の生徒を輩出していった高石勝男は日本水泳連盟大阪支部長に就任すると、1952年(昭和27年)のヘルシンキ・オリンピック、1956年(昭和31年)のメルボルン・オリンピックで惨敗に終わった日本水泳界に危機感を覚え、田畑政治と対立して日本水泳連盟会長選に出馬。
結果は田畑政治に軍配が上がりましたが、その後水泳界を混乱させた責任を取って辞任した田畑政治は東京オリンピック誘致活動の方へシフトチェンジし、高石勝男は1961年(昭和36年)の東京オリンピック開催決定と共に日本水泳連盟4代目会長に就任しました。
さらに高石勝男はこれまでの実績を踏まえ、選手強化本部長も兼任して育成に励んでいきました。
戦前は敵なしだった日本水泳でしたが、この頃になると世界水準とは大きく離されており、さらに水泳自体、前回の優勝記録ですら次回には予選通過さえ困難になるほど急速に進歩し続けていました。
このため、高石勝男はひたすら練習をすれば速く泳げるというこれまでの考え方を捨て、最先端のスポーツ科学を取り入れて明確な根拠をもって弱点を改善する方法を推進していきました。
しかし、1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、水泳総監督・高石勝男の率いる水泳陣は銅メダル1個のみの結果となりました。
それでも自らの信念に自信を持っていた高石勝男は「今後、スポーツ科学の研究が一段と進むにつれて人間の力の限界はさらに前進するだろう」と日本水泳の復活にエールを送り、2年後の1966年(昭和41年)に59歳で急死してしまいました。
誰からも愛された男・高石勝男の葬儀
高石勝男の早すぎる死には惜しむ声が相次ぎ、関係者たちは葬儀を高石らしいものにしようと大阪扇町プールで日本水泳連盟葬を行います。
この葬儀には盟友の鶴田義行や宮崎康二、兵藤(旧姓前畑)秀子らのほか、全国各地から3,000余名が参列しました。
そして各界名士の弔辞のあと、静まり返るプールに天理高校ブラスバンドによるロサンゼルス・オリンピックの応援歌「走れ大地を」が響き渡ると、自由形の山中毅選手らがプールに飛び込み、高石勝男の旅立ちに贈る献泳の水しぶきをあげました。
出場できなかったロサンゼルス・オリンピックでの応援歌で見送ったのは、高石勝男の悔しさをくんだ関係者の心遣いだったんでしょう。
明るい性格で誰からも親しまれた高石勝男らしい葬儀は、参列者が絶えることがなかったといいます。
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