大河ドラマ「いだてん」
副島道正
大河ドラマ「いだてん」で塚本晋也が演じるのが、岸清一の遺志を継いで日本人4人目のIOC委員となる副島道正。
明治時代に外務卿として活躍した副島種臣の息子であり、国際感覚に優れた副島道正は嘉納治五郎たちと共に1940年オリンピックの招致活動では重要な役割を担っていくことになります。
今回は「いだてん」でやがて1940東京オリンピック返上のキーマンになるとされている副島道正について紹介していきます。
副島道正(そえじまみちまさ)
副島道正は1871年〈明治4年〉、伯爵・副島種臣の三男として東京で生まれた。
父・副島種臣は旧佐賀藩士で尊皇攘夷運動に参加し、江藤新平や大隈重信らと共に明治政府内で重きを成した人物で、英語が堪能だったことから外務卿を務め、その後は宮内省などで活躍していた。
この父のもとで育った副島道正は、幼い頃から当然異国の文化に触れて成長し、やがてイギリスに留学してケンブリッジ大学を卒業した。
その後、帰国した副島道正は、宮内省に入って東宮侍従や式部官を務める一方で、実業家としても京城日報社長、日英水電・早川電力役員などを務めた。
日本は1940年のオリンピックを東京に招致しようと気運が高まる中、1934年(昭和9年)のIOC総会で委員に選出された副島道正の本心は「イタリアに譲った方が良い」というものだった。
しかし、1935年(昭和10年)になると嘉納治五郎らの情熱におされ副島道正は、イタリア大使となった杉村陽太郎と共に渡欧し、ライバルであったローマの立候補撤回をムッソリーニに求めることとなった。
この時、副島道正はインフルエンザと肺炎を発症してしまい、予定より遅れてムッソリーニと会談するというアクシデントもあったが、ローマの立候補撤回を約束させることに成功した。
その後、ムッソリーニが約束を反故にし立候補するなど事態は二転三転するも、結果的にローマは正式に立候補を撤回する。
そして1936年(昭和11年)、副島道正はIOC委員長のラトゥールを日本に迎えて現状を説明し好感触を得ると、ベルリンで開かれたIOC総会に出席。
開催地を決める投票の際、日本の招致委員会を代表して嘉納治五郎が「日本が遠いと言う理由でオリンピックが来なければ、日本がヨーロッパのオリンピックに出る必要はない」と演説してアジア初となるオリンピック開催を東京が勝ち取った。
しかし、副島道正が招致に貢献したこの1940東京オリンピックは、やがて日中戦争の悪化などにより返上となってしまう。
副島道正はその後、1947年(昭和22年)の貴族院廃止まで貴族院議員を務めたあと1948年〈昭和23年〉に死去した。享年77。
【いだてん】あらすじ
【いだてん】人物・キャスト