大河ドラマ「いだてん」
盧溝橋事件
大河ドラマ「いだてん」ではベルリン・オリンピック開催前に嘉納治五郎の夢である東京オリンピック開催が決定し、日本はオリンピック閉幕後に着々と東京開催に向けて準備をすすめていくことになります。
軍人、政治家などが組織委員に名を連ね、単なる運動会の枠を超えて国の威信をかけた国家的大事業となってしまったオリンピック。
それぞれの委員が勝手な主張を繰り返す状況に、副島道正や田畑政治らは東京オリンピックと日本の行く末に不安を膨らませていきました。
そんな中、追い打ちをかけるように起こったのが「盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)」。
今回は、太平洋戦争へとつながる日中戦争の口火が切られ、東京オリンピック返上の原因ともなった「盧溝橋事件」について簡単に紹介していきます。
幻となった東京オリンピックの歴史
盧溝橋事件
盧溝橋事件は1937年(昭和12)7月7日夜に中国北京西南地域(盧溝橋一帯)で始まった日本軍と中国軍の軍事衝突。
当時の日本政府ではこの事件を「北支事変」と呼び、中国側では「七・七事変」と呼んでいた。
1937年、中国に対して日本は支那駐屯軍を増強し、北京に対する圧力を強めていた。
7月7日夜、日本軍は中国軍の守る要衝の地・盧溝橋の付近で夜間演習中、突如として実弾数発を射撃され、日本兵1名が行方不明になるという事態が発生する。
この日本軍への発砲については日本軍による自作自演、中国軍の誤認発砲、中国共産党の計画的犯行など様々な説がある。
その後、行方不明となっていた日本兵は発見されたが、その知らせは本部にすぐに伝えられなかった。
そして8日午前3時になって再び銃声があったことから、日本軍は午前4時半に攻撃命令を出し、午前5時半に交戦状態へ突入した。
日本軍の攻撃を受け、中国共産党は華北の防衛、全民族の抗戦を訴え、共産党と対立していた中国国民政府も日本に抗議。
共産党と国民政府が「日本」を共通の敵として認識するようになっていった。
この盧溝橋事件が起こった時、日本国内には①武力行使と、②満州経営のため全面衝突回避の二つの意見があった。
現地では11日夜8時、停戦協定が成立して事件が収拾しつつあったが、日本政府は武力行使路線をとって「華北派兵声明」を発表したため、このあと日本は中国との全面戦争へ突入していくのである。
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