大河ドラマ「いだてん」
天狗倶楽部(TNG)とは?
『テング、テング、テンテング、テテンノグー!奮え、奮え、天狗』
これは胸に「TNG」の文字をつけ「天狗倶楽部」と呼ばれた私的スポーツ団体の掛け声です。
大河ドラマ「いだてん」でも明らかに違うテンションで現れ、目を釘付けにしていく「天狗倶楽部」。
この記事では、このよく分からない男臭い集団「天狗倶楽部」とそのエピソードについて簡単にまとめてみました。
特集‼
天狗倶楽部(TNG)とは
天狗倶楽部の成立は諸説あるものの、明治時代末期に野球をこよなく愛する冒険・SF小説家の押川春浪(おしかわしゅんろう)がスポーツを楽しむために結成したといわれている。
メンバーは押川春浪を慕って集まった者達がほとんどで、最盛期には100人を超える規模だった。
ただ、この天狗倶楽部は入会手続きや会員名簿などはなく、部員と非部員の境はあいまいな完全なる私的集団に過ぎず、押川春浪ら主要メンバーが亡くなると自然な流れで消滅していった。
野球と「天狗」の由来
押川春浪たちは当初「天軍チーム」と名乗って集まり、様々な野球チームと試合を行っていた。
リーダーの押川春浪は野球をこよなく愛し、メンバーには野球経験者、特に押川春浪の出身校である早稲田大学の元野球部員が多く集まっていた。
中には社会人都市対抗野球のMVPに与えられる「橋戸賞」の由来となっている橋戸信、日本初のプロ野球チームを結成した河野安通志、学生野球の発展に力を尽くした飛田忠順、プロアマ問わず野球の発展を陰から支えた押川清、さらに神宮球場の建設に携わった太田茂など、のちに野球殿堂入りする人物が名を揃えていた。
「天軍チーム」は1日に4試合という無茶苦茶な試合数をこなし、その豪快さからやがて『天狗』と人々から呼ばれるようになる。
また、メンバーの多くが酒豪だったことから、古来のイメージ『天狗』と『酒』が結びつき、そう呼ばれたのだともいう。
天狗倶楽部の精神
天狗倶楽部を紹介した当時の雑誌には「負けても、勝っても、法螺(ホラ)と負け惜しみだけは人並み以上に吹く」と書かれている。
天狗倶楽部のメンバーは試合後に酒を飲んでは子供じみた負け惜しみ合戦を始め、ときにはつかみ合いのケンカとなっていた。
ナンバー2の中沢臨川(なかがわりんせん)は「鉄のような『負け惜しみ精神』を持つ橋川清と筆頭に、押川春浪の弟・押川清、弓館小鰐(ゆだてしょうがく)の3人が負け惜しみ三幅対(三人で一組)」と評した。
実際、『負け惜しみ精神』は天狗倶楽部の通称だとも語っている。
中川臨川
天狗倶楽部(TNG)と相撲
野球がきっかけで結成した天狗倶楽部であるが、他にも相撲やテニス、柔道などあらゆる競技を行っていた。
部員もスポーツ選手だけでなく、小説家、画家、新聞記者、政治家、パイロットなど十人十色で、その名を後世に残すことになる者も多く、一種エリート集団でもあった。
そんな天狗倶楽部は学生相撲でも大きな功績を残した。
初めて相撲大会を開いたのは結成間もない明治42年(1909)。
自宅に土俵を持つほど相撲好きの小説家・江見水蔭(えみしょういん)率いる江見部屋に天狗倶楽部は無謀にも挑んだ。
結果は大惨敗を喫することになるが、これがなぜか第一高等学校相撲部から挑戦を申し込まれることとなり、天狗倶楽部は見事に勝利。
それが「国技館学生角力(すもう)大会」の開催に繋がって、現在の学生相撲の原点となった。
ちなみに天狗倶楽部のメンバーの四股名は皆「水滸伝」の登場人物だったという。
天狗倶楽部とオリンピック
大河ドラマ「いだてん」でも描かれるように、ストックホルム・オリンピックに出場した三島弥彦は天狗倶楽部のメンバーだった。
当初、三島弥彦は予選会の審判として参加する予定だったが、他の選手が走っているのを見ている内にフツフツとたぎるものがあり、そのまま飛び入りで参加。
そして三島弥彦は100m、400m、800mで1位となり、200mでも2位の好成績を残した。
このため嘉納治五郎に目をつけられ、マラソンの金栗四三と共に日本人初のオリンピック代表となったのである。
もちろん、この快挙に天狗倶楽部のメンバーは大喜びし、派手に三島弥彦を送り出したという。
天狗倶楽部のリーダー・押川春浪
押川春浪は東京の明治学院で本格的な野球を知り、熱中するあまり2年続けて落第した。
父の方義はこれを怒り、自身が院長を務める仙台の東北学院に編入させたが、春浪は全然懲りてなかった。
授業中に気に入らない同級生の髪に火をつける「頭髪焼き討ち事件」を引き起こし、父は手がつけられないとして春浪を札幌農学校へ追いやった。
しかし、その後も転向を重ねて、その先ごとに豪快な逸話を残していったという。
押川春浪
天狗倶楽部のヤジ将軍・吉岡信敬
天狗倶楽部には吉岡信敬(よしおかしんけい)という派手な振る舞いで注目され続けた男がいた。
吉岡は野球はあまり上手ではなかったためか、早稲田大学応援隊を結成して自ら隊長となった。
それ以降、野球を中心に各種スポーツの応援には必ず姿を見せ、応援や場内整理にあたるようになった吉岡は、「虎鬚彌次将軍(とらひげヤジ将軍)」と呼ばれるようになり、学生でありながら日本全国の学生に名を知られる存在となっていった。
吉岡信敬
1906年(明治39年)、野球の早慶戦が行われ、両校は応援席の配分でもめた。
すると早稲田の応援隊長・吉岡は「指揮官を6頭の馬に乗せ、剣を携え、1万人の応援隊でグラウンドに乗り込む」と威嚇した。
この吉岡の言動で早慶戦は校長同士が話し合う事態にまで発展し、その後19年にわたって早慶戦は中止になってしまった。
この事件で吉岡は批判を浴びることもあったが、その人気は衰えることはなかったという。
余談:天狗倶楽部のオナラ対決
前述にある通り、橋戸信は社会人都市対抗野球のMVPに与えられる「橋戸賞」の由来となっている人物であるが、「ドカンと一発の巨砲型」と恐れられるほどのオナラの持ち主だった。
ある夜、天狗倶楽部メンバーで野球仲間の弓館小鰐が暗闇の中で仲間が泊っている宿を探していると、近くの旅館から爆発音のようなオナラの音が聞こえてきたという。
これに弓館は「橋戸に間違いない」と確信したが、やがて現れたのは押川春浪だった。
天狗倶楽部のリーダーはオナラでも負けず嫌いだった。
【いだてん・関連記事一覧】
【いだてん・全話あらすじ】