大河ドラマ【いだてん】
~東京オリムピック噺~
2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」で登場する武井壮が演じる「天狗倶楽部」のリーダー『押川春浪(おしかわしゅんろう)』。
異様な格好の吉岡信敬、真面目そうな中川臨川らメンバーは皆、この『押川春浪』のことを慕って「天狗倶楽部」に参加してきた者でした。
『押川春浪』は主人公の金栗四三とは大きな接点はありませんが、2人とも同じ時代を生き、スポーツを愛したという共通点があり、『押川春浪』の方はスポーツだけでなく、文学の方でも異彩を放って後世に名を残す存在となっていきました。
では簡単ではありますが、天狗倶楽部のリーダーで冒険小説家・『押川春浪』について紹介していきます。
どヤンキー?天才?押川春浪
押川春浪は愛媛県松山市で、キリスト教牧師の押川方義の子として1876年(明治9年)に生まれました。本名は方存(まさあり)。
のちに一家は仙台に移り、押川春浪は小学校卒業後に単身で上京して明治学院に入学しました。
ここで野球と出会った押川春浪は、その魅力にすっかり取り憑かれてしまい、2年続けて落第してしまいます。
怒った父は押川春浪を仙台に呼び戻し、自身が創設した東北学院に編入させましたが、ここでも押川春浪は気に入らない同級生の頭に火をつけるという事件を起こして札幌農学校へ送られました。
その後も押川春浪の乱暴は止まらず、札幌でも騒ぎを起こして退学し、続いて芝の水産講習所に入りますが、ここも退学してしまいます。
そして押川春浪は父が親しかった大隈重信によって創立された東京専門学校専修英語科に入学しました。
乱暴ばかりが目立ちますが、意外にも押川春浪は小説家を目指していました。
在学中の1900年(明治33年)、押川春浪は『海底軍艦』を執筆すると認められ、出版までされて人気を得ることになります。
翌年には再版も出されて、その後も押川春浪は次々と冒険小説を発表していきました。
東京専門学校卒業後の1904年(明治37年)、日露戦争が始まると雑誌『日露戦争写真画報』が刊行され、押川春浪は編集者として就職します。
同誌は戦後に『写真画報』に変わりますが、それと同時に押川春浪は編集長に抜擢されました。
そこで押川春浪は小説を掲載して人気を得ると、1908年(明治41年)に『冒険世界』を主筆して自分以外の多くの冒険小説を掲載し、ブームを作り出しました。
そしてこの『冒険世界』では元々、大好きだった野球などスポーツについても取り上げていきました。
天狗倶楽部
その後、押川春浪はスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を結成し、仲間を集めて野球のみならず、相撲、テニスなどもあらゆるスポーツを楽しみました。
また、総合グランドの必要性にも着目し、「天狗倶楽部」のNO.2である中沢臨川と共に羽田運動場建設にも関わっていきます。
さらに押川春浪は司法大臣・尾崎行雄を会長とする「日本運動倶楽部」も設立し、様々な競技会を開催していきました。
そして1911年(明治44年)、大日本体育協会と共催でストックホルムオリンピックの予選大会を開催。
東京高等師範学校の金栗四三と「天狗倶楽部」のメンバーの三島弥彦を日本初のオリンピック選手として送り出しました。
同年、新渡戸稲造らによる「野球害毒論」が起こると、押川春浪は反論を掲載し演説会を開くなど徹底的に反発します。
しかし、押川春浪は『冒険世界』での反論掲載を巡って出版社上層部と対立し、退社となってしまいました。
1912年(大正元年)、『武侠世界』を発刊した押川春浪は『冒険世界』のメンバーを引き抜いて売上を伸ばします。
この『武侠世界』では「天狗倶楽部」関係の記事も多く掲載されました。
しかし、1914年(大正3年)、押川春浪は長年の暴飲がたたってか、脳膜炎によって自宅で急死してしまいました。享年39。
そしてリーダーを失った「天狗倶楽部」は、主要メンバーが相次いで抜けて自然消滅となっていきます。
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