大河ドラマ「いだてん」
人見絹枝のその後と死因
1928年、アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場した人見絹枝は、800m走決勝で2着となり日本人女性初のオリンピックメダリストとなりました。
大河ドラマ「いだてん」では、帰国した人見絹枝が二階堂トクヨの前で今後も走り続けることを誓っていますが、その後の人見絹枝はどのような人生を歩んだのでしょうか?
この記事では、女子スポーツを道を切り開いた人見絹枝のその後の人生と死因、「8月2日」にまつわる人見絹江と有森裕子の物語について簡単にまとめています。
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人見絹枝のその後
1928年8月2日、アムステルダム・オリンピック800m走で銀メダリストとなったあと、人見絹枝は3日後に同大会の走高跳に出場していました。
これは予選落ちという結果に終わりましたが、同月ベルリンで開催されたインターナショナル競技会に出場すると、人見絹江は走幅跳と800m走で優勝するという成績を残しました。
帰国後の10月、人見絹枝は第7回陸上競技選手権大会に出場していますが、このときは長旅の疲れからか100m走で橋本靜子に敗れ、その後一旦競技から離れることを決断しました。
1929年に入ると人見絹枝は積極的に若い世代の育成や講演会をこなし、様々な大会の費用工面に走り回ります。
そして春には練習を再開して競技者として遠征を行い、各大会で世界記録の更新するなど好成績を残していきました。
この年、人見絹枝が出場した大会は国内、海外を含め7大会を数え、1カ月の間で3大会に出場した時もありました。
1930年になると、女子スポーツへ発展への焦りがあったのか、人見絹枝はさらにハードな日程で大会に出場していきます。
半月の間に海外で5大会という超過密日程の中、日本女子チームを率いた人見絹枝は、高熱を出しても強行出場するという無茶っぷり。
それでも人見絹江は成績を残していきましたが、やがてその体は悲鳴を上げ、病が蝕んでいきました。
人見絹枝の体調不良と共に、徐々に成績を落としていく日本女子チーム。
これに伴って国内での反応は冷たくなり、選手たちは深く傷ついたといいます。
このため人見絹枝は競技から離れ、岡山の実家で休養することにしましたが、結局、翌日には当時働いていた新聞社での仕事や、これまでの募金へのお礼に駆け回ってしまいました。
早すぎる人見絹枝の死因と有森裕子との「8月2日」
競技でも競技以外でも走り続けた人見絹江は1931年3月6日、ついに倒れてしまい、25日には喀血し、肋膜炎で入院。
5月31日に見舞いに訪れた恩師・二階堂トクヨは人見絹江を一目見て大病であることを見抜き、涙を流したといいます。
7月になると人見絹江は肺炎を併発。
アムステルダム・オリンピックで日本人初の金メダリストとなった戦友・織田幹雄が見舞いに訪れた時には、すでに人見絹江の姿は変わり果てていました。
そして人見絹江は7月29日に初めて「苦しい。家に帰りたい」と弱音を吐き、8月1日に病状が急変。
アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の8月2日、乾酪性肺炎によって人見絹枝は24歳の若さで死去しました。
訃報を聞いた二階堂トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」と語っています。
また、国内だけでなく、海外にも衝撃を与えた人見絹枝の告別式には千人を超える参列者が訪れ、国際女子スポーツ連盟をはじめ世界中から弔電が寄せられました。
女子スポーツへの偏見と常に戦っていた人見絹枝は、「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない!」と言葉を残しています。
その遺志はやがて後輩たちに引き継がれ、現代に繋がる日本女子スポーツ界発展の礎となりました。
人見絹枝と同じ岡山出身だった有森裕子は彼女を尊敬し、1992年バルセロナ・オリンピックのマラソンで人見絹枝以来の陸上女子メダリストになります。
驚くべきは、この有森裕子の銀メダル獲得の日。
そう、この日は人見絹枝の命日であり、人見絹枝がアムステルダム・オリンピックで銀メダルを獲得した同じ「8月2日(日本時間)」だったのです。
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