大河ドラマ「いだてん」
ムッソリーニ
大河ドラマ「いだてん」で白黒の本人映像で紹介されているイタリアの独裁者・ムッソリーニという人物。
嘉納治五郎、田畑政治たちが目指す1940年の東京オリンピック招致に向けて動き出す中、このムッソリーニも首都・ローマへ招致を計画していました。
当時、世界の中心地であったヨーロッパに位置するローマに対し、地の利の部分で圧倒的に不利な状況にあった東京。
この状況を打開するため、策士・田畑政治を得た嘉納治五郎は意外な方法でムッソリーニのローマ招致を諦めさせようとします。
この記事では、日本とオリンピック開催をかけて争ったイタリアの首領・ムッソリーニの悪名高きその生涯について超簡単に紹介していきます。
いだてんより
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/
ベニート・ムッソリーニ
1883年、ムッソリーニはイタリア北部のロマーニャ地方・プレダッピオ村で鍛冶職人の子として生まれた。
無政府主義者の父親のもとで青春時代を過ごしたあと、約2年間スイス各地を放浪して社会主義運動に触れたムッソリーニは弁説やジャーナリストとしての才能に目覚めていった。
そして帰国後、各地で教師生活をしながら社会主義地方新聞に寄稿してオーストリア領トレントの労働会議所書記となった。
その後、1910年に故郷に帰って社会党連盟書記になり、ムッソリーニは革命的社会主義を宣伝していった。
やげてリビア戦争が起こると、ムッソリーニは反戦行動を扇動して5か月間投獄され、党内で過激主義者として名が知られるようになる。
そして1912年の党大会の演説で脚光を浴びると、指導部に選出されたムッソリーニは党機関紙『アバンティ』の編集長に就任し、発行部数を2万部から10万部にまで急増させるなど党の改革を推し進めていった。
第一次世界大戦勃発当初、ムッソリーニは社会党の方針である「絶対中立」の立場を貫いていた。
しかし、戦局が進むにつれてムッソリーニは戦争を通じての革命を展望するようになり、1914年10月に「参戦論」を機関紙に発表し、社会党を追い出されてしまう。
1915年8月、ムッソリーニは参戦論者としての責任を果たすため、召集令状を受け取って戦地に赴いたものの、1917年2月に榴散弾の爆発事故で重傷を負い、除隊となってしまった。
大戦後の1919年3月、ムッソリーニは参戦勢力と協力してミラノで「戦闘ファッシ」を結成。
すると「戦闘ファッシ」は社会党に敵対する勢力として急速に膨張し、1921年には「ファシスト党」として組織された。
そしてムッソリーニは、党首として旧支配層と政治的取引を行い、1922年10月にクーデターを実行。
結果、国王はムッソリーニへ内閣の組閣を命じ、1943年まで約20年間も続くファシスト政権が誕生した。
ファシスト政権は当初は連立政権として出発したが、やがてあらゆる政党と組織を解体して一党独裁体制を樹立。
ムッソリーニは全ての権力を掌握して「ドゥーチェ(首領)」と呼ばれた。
ムッソリーニの変顔
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1935年10月、ムッソリーニはエチオピア侵略に乗り出したが、これは国際世論と国際連盟に激しく抗議された。
その後、スペイン内戦へ介入しドイツとの結び付きを強めたムッソリーニは、1937年に国際連盟を脱退して1939年にドイツと軍事同盟を結んだ。
ドイツがポーランドに侵攻した第二次世界大戦開当初、ムッソリーニは中立的な態度を取り続けてイタリアは戦争に参加しなかったが、やがてドイツによってフランスの敗北が決定的になると、ムッソリーニは日独伊三国同盟を結んで英仏米連合国に宣戦布告。
しかし、イタリアは準備不足のために劣勢を余儀なくされ、1943年の連合国によるシチリア上陸作戦で敗色濃厚となる。
そしてムッソリーニは軍部のクーデターによって失脚し、イタリア中部グラン・サッソの山中に拘置されてしまった。
その後、ムッソリーニはドイツ軍特殊部隊によって救出され、ヒトラーの求めに応じて北イタリアに「イタリア社会共和国」を樹立して連合国と戦うものの、次第に追い詰められて逃亡。
ムッソリーニは1945年4月に捕らえられて処刑された。享年61。
遺体は愛人の死体とともにミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒されている。
出典:http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/
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